第18話 それぞれの形
火にかけられた大鍋から温かな湯気が吹き出し、グツグツと鳴る音が涎を誘う。テーブルに有るのは豚骨、塩、醤油味と書かれた袋。そして封の空いたサバの缶詰が人数分だけ並べられている。
無事にロジー宅へと帰還した3人は、手始めとして腹ごしらえに取り掛かった。塩分過多なメニューも空腹時にはごちそうである。缶にぎっしり詰め込まれた身を頬張ると、金底に溜まる汁にお湯を注ぎ、蕎麦湯にも似た何かを音を立てながら啜る。
「さて、食べながらで構わないので聞いて欲しい。今後我々が何を為すべきかについてだ」
「はぁぁ美味しい。海の味がするぅ」
「味噌ってこんなに旨かったんだな。今まで考えもしなかったぞ」
「……今後君たちと大事な話をする場合は、食事時を避けるようにしよう」
前菜としてサバの味噌煮やスープを平らげると、お次はメインディッシュのラーメンだ。麺と粉末にお湯をかけ、ガーリックチップをまぶすというシンプル過ぎる料理だが、不満を口にする者は居ない。少なくともヒナタとケイゴに関して言えば、さながら三ツ星料理にありついたかのような、激しい食いつきブリを見せた。その様子にはロジーも苦笑いを押し殺すのがやっとという有様である。
例によって舐めるようにして完食し、丼は食後の紅茶と入れ替わる。本日はダージリンティー。透明感のある橙色の底には砂糖が僅かに溶け残っていた。カップの取っ手を持ち、何度か水面を揺らしているうちに、やがて跡形もなく消えた。
「そろそろ良いかね。今後取るべき行動について話し合いたい」
ロジーが紅茶で口を湿らせると、平たい声で言った。ケイゴはその何気ない仕草から絶妙な調和らしきものを感じた。日本人離れした顔立ちに金色の髪が、紅茶を嗜む姿とよく馴染むのだ。しかしその一方で、背後の壁に広がるジャパニメーションポスターの数々がどうにも不釣り合いで、やはり収まりの悪さを感じるという所に落ち着いた。
「ええと、次の目標は地熱を使っていこうって話ですよね」
「そうだ。勿論それだけでは不十分だ。今後の事も見据え、動植物を可能な限り保護するべきだろう」
「動植物の保護……ですか?」
「ご存知の通り、植物は日光を浴びねば養分を生み出す事ができない。現状は、人間で言えば絶食のようなものだ。体内に残る栄養素を使い果たしてしまえば、やがて死滅する。それは世界のあらゆる場所で同時進行する破壊であり、種の絶滅と同義であると言えよう」
「言われてみれば、光合成が出来ないんだもんな。枯れちまうのも時間の問題か」
「まぁ今日明日という程まで逼迫してはいないが、悠長に構えてもいられない。猶予は半月くらいだろうか」
「半月……」
ケイゴは思わず絶句した。残された時間はあまりにも短く、およそ達成不能のように思えたからだ。しかし、泣き言を並べても意味を成さない。今はやれる事をやるしかなかった。
「少なくとも、食料となりうる稲などの農作物は最優先で保護する必要があるだろう。豚や鳥などの家畜についても、可能な限り対処したい」
「それは食料として、か?」
「無論だ。今のうちはくまなく探せば、保存食などいくらでも見つかるだろうから、危機感は薄いかもしれない。しかし、それもいつかは尽きる。その頃になって慌てたとしても手遅れなのだ。多数の命が死に絶えた世界で、人が食用に出来るものと言えば、せいぜいネズミくらいなものか」
「うげぇ。それだけはちょっとパスしたいですかねぇ……」
「やばいなんてモンじゃなかったな、未来は」
ケイゴは想像するだけでも寒気を覚えた。肌も凍る極寒の世界。あらゆる動植物が死に絶え、苔すら生えないひび割れた大地。人類に残されたのは、かつて繁栄した名残とも言える、コンクリート製の廃墟ばかり。備蓄は既に底を尽き、肋の浮きあがった体に冷気が突き刺さる。そうして苦しむ様を、星々はただジッと見下ろすのみ。このビジョンは誇張でもオカルトでもなく、やがて訪れる世界の必然であった。
一方ヒナタは、今ひとつ実感が湧いていない。ドブネズミは嫌だとか、ハムスターならイケるいや可哀想などと呟くばかりだ。悩みのステージが若干低い事に目を瞑れば、彼女もおおよそ理解したと言える。
ケイゴは改めてロジーの慧眼に感謝の念を抱く。単色光による農法が絶望に染まりきった未来を回避する、唯一無二の方法としか思えなかったからだ。わざわざ大学まで足を運んだ甲斐もあったというものだ。その立案者はというと、特別功績を鼻にかけるような素振りも見せない。いつもと変わらぬ論調で、ただ淡々と計画を提案し続けるだけだ。
「基本方針は以上だ。地熱を活用し、気温の急降下に対抗する。可及的速やかに発電まで漕ぎ着け、家畜や植物を保護する。さながらノアの箱船のようにね」
「話は分かった。それで、場所はどうするんだ。地熱って、どこにでもある訳じゃないんだろ?」
「出来れば資源の豊かなエリアを選びたい。ここから向かうのであれば、箱根、あるいは草津などが良いだろう」
「箱根か草津……ですか」
神妙な面持ちでヒナタが呟く。顔をうつ向かせる姿は、その胸の内を覆い隠すかのようだ。真意を晒けだすか否か、迷いが生じている証でもあった。
「どうしたヒナタ君。何か不都合でも?」
「あの、私たちの地元って、茨城の笠間なんです。焼き物で有名な。それで、贅沢を言える状況じゃないと思いますけど、その……」
「家族に会いたい。せめて安否の確認くらいはしたい、という所か?」
「はい。でも、ダメですよね……」
「であれば仕方ない。茨城の北部、福島との県境に向かうとしよう。笠間とやらはその途上で寄れば良い」
ヒナタは弾かれたように顔をあげ、瞳をカッと見開いた。膝に乗せた両拳も小刻みに打ち震える。
「本当に、本当に良いんですか!?」
「泣く泣く、という言葉が当てはまるがね。だがもし仮に、箱根を選んだとしたらどうだ。場合によっては君は独りで茨城へと向かってしまうかもしれない。そうなればケイゴ君も迷わず後を追いかけるだろう。残された私は孤軍奮闘を強いられてしまう。つまりは3人全てが窮地に陥り、地熱がどうのと言っている場合ですら無くなってしまうのだ」
「すみません、ワガママ言って……ッ!」
「気にする事は無い。それよりもだ。これまで見聞きした通り、人類は甚大な被害を被っている。故郷に戻ったとして、望まぬ結果が待ち受けていても堪えられるかね?」
「はい……。覚悟の上です。ケイゴ君はどう?」
「オレはまぁ、別に。大丈夫だ」
「そうか。では話は決まりだ。明日早くには荷物をまとめ、茨城に向けて出立するとしよう」
「わかりました、お願いします!」
話が終わるとすぐに就寝となった。灯りを暗くし、室内が薄闇に包まれる。顔の判別がつかない程になっても、ヒナタの上機嫌ぶりが耳にまで届く。その様子をケイゴは共感できない想いで眺めていた。家庭円満な家であれば、こうなるのが自然かと思うだけである。
横になる事しばし。直近の話題が手伝ってか、ケイゴは夢を見た。記憶の外に追いやったはずの家族が総出演する悪夢を。
ーーなんだこの点数は! オレに恥をかかせる気か!
95点の答案を見せるなり、父は殴った。病的なまでの完璧主義者であり、虚栄心の塊のような男だ。不完全なものを極度にまで嫌悪するが故に、ケイゴに対してしばしば行き過ぎた教育を施したものだ。
手を出す時はいつも感情を爆発させた。口から奇声を発し、ひたすらに殴打する。殴る蹴る、殴る蹴る。やがて気が済むと「少しは兄を見習え」と吐き捨てるように言い残し、這いつくばる実の子を部屋に置き去りにするというのが日常だった。
ーー陰気臭いし気持ち悪い。早い所家から出ていってくれない?
戸籍上の母は口癖のようにそう言った。実の母はもう亡い。ケイゴが中学の入学を目前に控えた頃、交通事故でこの世を去ったからだ。家庭内で唯一の味方であった人との死別は、幼いケイゴを酷く打ちのめしたのだが、父は違った。
葬儀から半年もしないうちに10歳以上も若い後妻を娶り、彼女を母と呼ぶ事を実子に強制したのだ。もちろんケイゴは真っ向から拒絶した。多感な年頃の少年が受け入れないのも無理は無いが、その結果として両親から疎まれるという事態を招いてしまったのだ。
ーーたまの週末くらいさ、家族3人で食事に出掛けようよ。
2歳上の兄は要領の良い男だった。父の過剰すぎる期待に応え続け、成績は極めて優秀、スポーツもそつなくこなし、有名大学にも現役で合格した。後妻との付き合いも、相手を上手くたてることで攻撃対象から外れる事にも成功している。
そんな兄は、ケイゴとだけは折り合いが悪かった。出来損ないの弟と呼ぶうちはまだ良い方で、いつの日か存在そのものを無視するようになったのだ。そのやり口は徹底しており、父の生き写しかという程に執拗で、冷酷だった。更には友人周りに『弟は随分前に死んで、もういない』と公言して憚らない程である。
これがケイゴの生家だ。生前の実母を除き、彼を認める者はただの1人として存在しない。典型的な機能不全家族のスケープゴート、それがケイゴに与えられた役割だったのだ。
ーー兄を見習え、この出来損ないめ。
ーー本当に気が利かないし要領悪い。お兄ちゃんはあんなに立派なのにねぇ。
ーーどうしてこうも冴えないかな。血の繋がった弟とは思えないよ。おっと、僕とした事が、亡くなった人を悪く言ってしまったよ。
兄が、兄が、兄が。来る日も来る日も、気がおかしくなる程に投げつけられる言葉。ケイゴは追い詰められ、いつしかノイローゼになりかけるまでになってしまった。しかし、心の芯が放つ声により、どうにか自身を保ち続ける事ができた。
『オレの身体は、魂は、オレだけのものだ! お前らの指図なんか受けてたまるか!』
辛うじて繋がっていた家族の絆を粉砕した言葉。同じ屋根の下で暮らす事すら許されなくなった禁忌の言葉。それがひとたび脳内を駆け巡ると、夢の世界でも大きな効果を発揮した。この世で最も憎悪する3つの影がたちまち霧散し、心には静寂が取り戻された。
そして、同時に目が覚めた。寝覚めは最悪。厳しい冷え込みの中でも、額に大汗をかいている。それを掌で払い除け、テーブルに置きっぱなしの紅茶を口に含み、一口だけ飲み込んだ。すっかり冷え切っており、胸の中の寒々しさが一層辛いものになる。
そんな最中で、ヒナタの寝顔が暗がりの中で薄ぼんやりと見えた。安らかな寝息は羨ましさを覚える程だ。もし身内の夢でも見ているとしたら、自分とは雲泥の差だろうと苦笑してしまう。
「家族との縁ってのは、普通はこんな感じなんだろうな」
誰に言うでもなく、ケイゴの口から言葉が漏れた。それからは再び寝床へと戻り、横になって目蓋を閉じる。身体は疲れを訴え続けてはいたが、なかなか寝付く事が出来なかった。微睡みの中、夢と現(うつつ)を行き来し、眠っては目覚めるという事を繰り返した。
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