第17話 因果応報
1階東は書架と受付が一体となった大部屋だ。その隅で今、2人の男が真っ向から対峙している。丸腰の男はすっかり追い詰められ、右手に本棚、左手には窓と逃げ場が無い。外灯がわりに設置されたライトが室内を薄く照らし、両者の対照的な顔を明るみにする。
「この野郎、もう逃げられねぇぞ!」
追跡者のいきり立つ様は野犬の姿に酷似している。凶相に歪む顔が、今にも相手の喉首を食い千切らんとする程の憎悪を撒き散らす。
どう見積もっても剣ヶ峰。逃げる側にすれば落命必須の危機である。しかしそんなシーンにも関わらず、平坦で抑揚の乏しい、場違いにも程がある声が投げ掛けられた。
「そう興奮するな。まずは深呼吸でもして頭を冷やしたまえ」
追い詰められた人物に焦りの色は無い。不自然なまでに落ち着きを払った態度、ある種のふてぶてしさは、ロジーという男の立ち振るまいそのものだ。
しかし今ばかりは火に油という言葉が相応しい。男は小馬鹿にされた気分になり、力任せにバットを振って窓ガラスを叩き割っては激しく吠えた。
「ふざけんなよマジで。今すぐ口のきけねぇ体にしてやっからな!」
「まぁ待て。勝手に潜り込んだ事については詫びよう。しかし、私は徒(いたずら)に無法を働いたのではない。すべては人類存続の為だ。君たちにとっても有益な話になるが、聞く気はあるかね?」
「人類の存続だと!?」
「君らも察しがついているだろう。地球は太陽を失ってしまった。このまま手をこまねいていれば、あらゆる動植物が死に絶え、地表は凍り漬けとなる。そのような過酷な環境を生き抜く為には、地熱の活用が……」
交渉の言葉はその途中で、目の前の男が大きく笑う事で遮られた。その表情は愉快さよりも、嘲笑う気配が濃厚に押し出されている。
「太陽が消えたとか、大法螺も大概にしろよ! そんな事ある訳ねぇだろうが!」
「では、明けぬ夜をどのように説明づけるのだ? 別の答えがあるというのなら拝聴したいものだ」
「これはな、火山が原因だ。世界中の活火山が一斉に噴火したんだ。そんでヤベェ量の火山灰が空に浮いてっから、こんなに暗ぇんだよ」
「本気でそのように考えているのか?」
「仲間に理系のやつがいる。アイツは頭が良いから間違いねぇ」
ロジーは眼の疲れを覚えたように眉間をつまみ、聞こえよがしに溜め息をついた。あまりにもお粗末な理屈と根拠から頭痛に苛まれた為だ。
仮に火山灰が原因だとしても、空がここまで暗くなったりはしない。それどころか星々はかつてない程に広がっているのだから、天候自体は快晴そのものなのだ。更に言えば、急激な気温低下とも説明がつかない。灰で日光が遮られれば確かに気温は下がるが、せいぜい数度ばかり減ずる程度。真冬と見紛うほどに落ち込んだりはしないものだ。
ーーこれが、最高学府で学ぶ男の言葉か。
振り返れば、澱み無く結論を導きだしたケイゴの洞察力は大変に素晴らしいものだ。そのためロジーは、キャンパスに巣食う悪党にも通じるのではと、無意識的にも微かな期待を寄せてしまった。それが甘い夢であった感は否めない。結果、失望の念が頭痛となって体現したのである。
「そんな世迷い言に惑わされてはいけない。早急に手を打たなければ、人類に明日は……」
「ゴチャゴチャうるせえ! 世界で何が起きたかなんて知ったことか! オレたちはな、ムカつくヤツらは皆殺し、後は女とヤりまくれればそれで良いんだよ!」
「それが君た……いや、貴様らの結論か。評価はFだな。成績はもとより、その人間性もだ」
「偉そうにホザくじゃねぇか。テメェら教授とかいう人種は皆そうだ。この前騒ぎを起こした生物科のオッサンもな」
「……それはサカザキの事か?」
ロジーが俄(にわか)に気配を変えた。呆れ一色であった瞳に冷たいものが鮮明に走る。人の心には踏み込んでならない領域というものがあるが、武勇伝に酔いしれる男は、土足で踏み荒らした事に気づきすらしない。上気したまま、滑らかな口で犯行の自白を続けるばかりだ。
「そういやそんな名前だったな。クソ偉そうなゴミ親父。あんまりにもムカついたから、指を一本一本全部へし折ってから殺してやったよ」
「何だと?」
「アイツ、途中からガキみてぇに泣き叫んでやんの。止めてくれ、助けてくれってよ。詫びるくれぇなら最初から逆らうなっつうの。終いには殺さないでとかさ、何度も喚いてたのはクソ笑えたぞ」
「貴様らに人の心は無いのか?」
「そうだ、テメェも同じようにして殺してやるよ。いや、目を潰して歯を全部へし折って、指も全部切り落とすってのが良いな! きっとシエキさんも気に入ってくれるだろうよ!」
「最悪だ。Fどころか無評価が相当だ。もはや人間とは呼ぶに値しない」
「うるせぇ! テメェも泣いて詫びやがれッ!」
交渉は見事に決裂。薄笑いを浮かべた男が武器を振り上げながら駆け始めた。距離にして数歩。丸腰のロジーは敢え無く命を散らしてしまう……かに見えたが。
「知恵昏い者は視野も狭い。定説だな」
ロジーは呟きとともに膝を折ると、足元に広がるカーテンを思いきり引いた。突然に巻き込まれた男からすれば、まるで地面がスライドしたかのように感じただろう。
元来、二本足で歩くヒトとは不安定な生き物であり、駆け足ともなれば輪をかけてアンバランスとなる。その性質を利用した作戦であった。男は物の見事に背中から転び、したたかに頭を打った。先程までの戦意も一挙に萎み、口から獣の様な呻き声をあげつつ、後頭部を抱えてのたうち回る。
「痛いか? だが、この程度で済むと思うな」
反撃はここで終わらない。ロジーは一冊の分厚い本を両手で抱えた。指の隙間からタイトルを覗けば、線形代数の入門書である事が見て取れる。その重量感溢れる書物を高々と振り上げ、転がる頭めがけて、激しく痛烈に叩きつけた。
額に本の角が突き刺さると同時に、鈍く、湿り気を帯びた音が生々しく響いた。そして訪れた不気味な静寂。床に這いつくばる男も、今は指先ひとつ動かしてはいない。
「それは名著だ。少しは数学にでも親しみ、理知というもの学びたまえ」
ロジーは吐き捨てるように言うと、乱れた髪を手櫛で整え、一瞥もせずに男の脇を通り抜けた。四肢を投げ出した体に対し、人としての尊厳を覚えぬように。
「まぁ、命があったならの話だがね」
それからは意識が出口へと向けられた。壁に身を寄せ、様子を窺うと、相も変わらず2人の男が見張りに立っているのが見えた。「突破は厳しいか……」と呟きを漏らすと、不意に背後から迫る気配を察知した。振り返ってみれば馴染みの顔だと知る。
「ロジー、無事だったか」
「君もな。悪魔退治は済んだかね?」
「2人ばかり倒した。あと1人うろついてるハズだが」
「ならば結構。残すは入り口の連中だけだ」
「えっ。まさかお前も倒したのか? 一体どうやって?」
狼狽えるケイゴをよそに、ロジーは改めて視線を敵に移し、その戦力を目測した。手下と思しき方は問題ない。体つきは平凡、武装も貧弱そのものだ。付け入る隙はいくらでも探れそうである。
問題はシエキと呼ばれる男だ。十分すぎる覇気を宿している上に、全身が厚い防備に覆われている。仮に打ち破るとして、間に合わせの道具では到底不可能である事は明白だった。ロジーはそのように見積もり、ケイゴも同じような分析を口にした。
「アイツが邪魔だな。倒すのも難しそうだ」
「戦いを挑むのは愚の骨頂。どこかの窓から脱出しようか」
「その方が良さそうだな……うん?」
「何か聞こえるな。これは、車か?」
遠くから響く音に2人は反応した。聞き耳を立てていると、それはすぐ側にまで迫り来るのがわかった。
物の判別がついた頃には既に、けたたましい音に包まれた。タイヤで床を激しく擦り、ガラスを盛大に叩き割りながら、一台の乗用車が乱入してきたのだ。それが見張りの男たちを吹き飛ばすと、館内の入り口付近で制止した。
「あれはヒナタ! どうして!?」
「やれやれ。運転の許可は出したが、それは車を守る為であった筈だろうに……」
ケイゴたちは急ぎ駆け寄った。運転席の窓を叩き、放心するヒナタの注意を引いた。生気の抜けた顔が上がると、すぐにドアが開き、ヒナタが車内から飛び出した。そしてケイゴの体に飛び付くと、嗚咽混じりに泣き始めた。
「ケイゴ君! ケイゴ君! 怖かったよぉ!」
「ヒナタ! 怪我は無いか?」
「大丈夫、でも、本当に死ぬかと思った……」
「君たち。メロドラマは後にしたまえ。すぐに撤収するぞ」
素早く運転席に潜り込んだロジーが促す。ケイゴも我に返ると、急ぎ後部座席に飛び乗った。ヒナタが車内からドアを閉めると同時に、車は激しい駆動音と共に屋外へと飛び出した。そのまま大きな道を直進し、駐車場を抜け、校門を目指す。
後は拠点に戻るだけ。ケイゴはそう考えていたのだが、ロジーの言葉が真っ向から否定した。
「荒い運転になる。シートベルトを閉めたまえ」
「どうしたんだ、急に?」
「しぶといものだ。腹立たしいくらいにな」
車は急加速してキャンパスから逃げ出した。すぐ後を追うようにして、一台のバイクが猛スピードで駆け抜けていく。乗り手はシエキだ。怒りで顔を紅潮させ、髪を振り乱しながらバイクを走らせる。
「逃がさねぇぞ! 全員まとめてバラバラに切り刻んでやる!」
その片手には小型のチェーンソーがあり、凶々しい音を撒き散らしながらの追跡だ。ケイゴは武装度そのものよりも、その残虐さや無法ぶりに気圧されて唾を飲み込んだ。
「これは流石にヤバいな。何か武器を積んでないのか?」
「この中に何にも無いよ。電球くらいかな」
「じゃあ、それを投げつけてやろうか? 顔にでも当たりゃ牽制くらいには……」
「それを使うなんてとんでもない。ケイゴ君、手を出したまえ」
ロジーから手渡されたのは黒光りする凶器だ。回転式の弾層には6発の弾丸を籠められるレボルバータイプで、人類を地上の覇者たらしめた世紀の発明品とも言える拳銃。
それを模した玩具だ。露天や駄菓子屋で見かけるポピュラーな品で、少量の火薬を打ち鳴らして遊ぶ事を可能とする。
「お前、せめてエアガンだろ! こんなんじゃ音しか出せねぇよ!」
「物は使いようだ。それで気を惹いてくれるだけで良い」
「随分と気軽に言うよな、お前って!」
もはや自棄である。窓越しに銃を構え、シエキを撃ち倒すつもりで狙いを付けた。右手でグリップを握り、もう片手で銃身を支える。それは精密射撃のようにも見えるが、玩具特有のチープさを覆い隠す狙いがあった。
シエキは車と横並びになると、唐突に銃口を向けられたことで動揺を顕にした。しかし、効果はものの数秒で終わる。暗がりが味方しても実態を隠し仰せる事は叶わなかった。贋物である事を理解するなり、シエキは声高らかに嗤った。
「何を持ち出すかと思えばオモチャかよ! 頭おかしいんじゃねぇの!?」
「うるせぇ、それ以上寄ると風穴開けちまうぞ!」
「やれるもんならやってみろよ、底無しのバカが!」
「ロジー、やっぱり無茶だ。簡単に見抜かれた……」
「さて。阿呆はどちらかな」
ケイゴは次の瞬間、体に強烈な付加を感じた。同時に耳をつんざく程のブレーキ音が鳴り、車はつんのめりながら急停車した。その前面に道は続いていない。大きな倒木から始まり、無数の瓦礫が積み上がる荒れ地となっているのだ。
この動きに反応しきれなかったシエキは停止が追い付かない。凄まじい勢いのまま倒木へと突っ込み、体は高々と宙に放り出されてしまう。制御が叶わぬまま廃墟の壁に激突し、すぐに地面へと叩きつけられた。
それでも厚い防備を身に付けている。特に衝撃に対しては優れた防御性能をもち、本来であれば浅傷で済んだかもしれない。しかし手にしたチェーンソー、これが彼の命運を分けてしまった。
「ギャアアッ! た、助けてくれ!」
ケイゴたちを害しようとした武器が反旗を翻したのである。ご自慢の鎧をいとも容易く破壊し、瞬く間に胸を切り裂いては血肉を撒き散らした。シエキの口からはドス黒い血が吹き出し、痙攣する唇が何かを呟くと、やがて力無く開かれた。
最後の言葉を聞き取れた者は居ない。ただそれが、懺悔や謝罪の類いで無い事だけは明らかである。
「さて、悪は滅びた。家に帰るとしようか」
不本意とはいえ人を手にかけたのだ。罪悪感が無い訳ではない。それでもケイゴたちの活躍により、周辺の避難民は大きな脅威から救われたのである。称える者が居たとしても、咎めようとする声は皆無であろう。
全ては生き残るため。手段を選ぶゆとりは無い。新世界の道理は極めて激しく、そして生易しいものでは無いが、ケイゴたちが学ぶまでそれほど時を要さなかった。
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