第15話 暴走少女

 ヒナタは震えていた。独り後部座席のシートに横たわり、闇と対峙しながら。頼りにするケイゴは今も離れたままだ。無音の世界で、ただひたすらにジッとしているのは、気が狂いそうな程の苦痛に思えてしまう。


ーー早く戻ってきてくれないかな。


 なぜケイゴたちに同行しなかったのかと、幾度となく後悔の念が過る。発端である別れ際の提案には耳を疑ったが、ロジーの言葉は正論だった。男と比べて力は弱く、まともに戦えもしない。万が一人質にでもなってしまったらと思うと、自分がお荷物である事を痛感させられたのだ。


ーーアタシって、何かの役に立ってるのかな。


 つい先刻にケイゴたちが戻ってきた時は心の底から安堵した。ああ、この苦痛から解放されるのだと。しかしそれは早合点であり、彼らは作業半ばだと言い残し、再び校舎の方へと消えた。その時も「やっぱりアタシも連れていって」という言葉を辛くも飲み込み、いってらっしゃいと笑顔で送り出した。


 せめて留守番くらいは務めなくては、外で危険に身を晒すケイゴたちに申し訳が立つ程度には、と思う。その様に気持ちを引き締めても、闇は狡猾だ。ヒナタの心に澱む不安をいくつも並べ立ては、健気な想いすらへし折ろうと企む。

 

ーーパパ、ママ……。


 家族の安否から始まり、数えきれないほどの懸念が次々と押し寄せてくる。生活基盤を持たないがゆえに、心を落ち着かせる術に乏しいのだ。


 やがて呼吸は荒く、そして小刻みになる。極度の緊張と無音の重圧が、肺の膨張と収縮を酷く衰えさせた。それどころか胸に手を当てていないと、現実感の薄れから、自我が闇に溶け込んで消えてしまいそうになる。掌の温もりだけが、ヒナタを現世に引き留めていると言って良い。


 一秒の長さが苦痛だ。もはや体内時計など存在せず、スマホを取り出してみても、大した時間が過ぎていない事が分かるだけだ。それでも頻繁に繰り返し眺めてしまうのは、藁をも掴む心境からであった。


「おい、今何かが光ったぞ!」


 不意に怒号が静寂を切り裂く。我に返ったヒナタはスマホをしまい、後部座席で身を屈めたが、既に手遅れである。駆け足は一直線に近づき、そして車の傍で止まった。


「女が居るぞ。侵入者は2人組じゃなかったのか!」


「へへっ。結構可愛いじゃん。しかもお手付きじゃねぇし」


 邪悪な笑みが窓の側に寄る。ヒナタは反射的に逆サイドのドアへと逃れるが、そちらには別の男たちが待ち受けていた。進退極まり、座席の真ん中に留まらざるを得ない。彼女の命運は男たちの腹ひとつ。運良く見逃してもらえるという、千載一遇の可能性にすがるばかりであった。


 では雲行きはどうかと言うと、極めて怪しい。男たちが手を出さず、品定めするように眺めているのも、嵐の前の静けさにしか見えなかった。


「じゃあ、シエキさんに伝えてくるわ」


「バカかお前。アイツはまだ女の存在を知らねぇんだ。わざわざ教えなくても良いだろ」


「じゃあどうすんだよ」


「オレたちでコッソリ飼う。もし邪魔になったら、ブッ殺して外に捨ててくりゃ良い」


「それ、バレねぇかな? 死ぬほどキレられると思うけど」


「そこは上手くやるんだよ。つうか、こんなチャンス滅多に無ぇぞ。それをみすみす逃すのか?」


 その言葉で男たちは眼の色を変えた。それから口許を酷薄に歪めたかと思うと、一斉に車を襲撃し始めた。


 男たちは車内に侵入しようと試みるも、全てのドアは施錠済みだ。窓も防犯仕様である為、鉄パイプによる攻撃も容易く弾いてまう。簡単に陥落する道理はない。


 それでもヒナタが窮地に陥った事には変わりなかった。車の両側に男たちが陣取っているのである。もはや脱出不能とヒナタの脳は早くも結論付けた。すると、恐怖が眩暈とともに押し寄せてくる。


ーーケイゴ君お願い、助けて!


 救援の影すら見えず、どこを見渡しても外敵ばかりだ。そこで不意に気が遠くなる。被災してより抱え続けたストレスに加え、この仕打ちである。忍耐も限界を迎え、精神が自衛機能を起動させたのである。いっそもう楽になれればという投げやりにな気持ちとともに、意識は遠い世界へと旅立とうとした。魂が底無しの沼へと沈み込んでいくようにして。


 しかし、彼女はとうとう陥ちなかった。心に残された僅かな取っ掛かりを起点に、瞬く間に態勢が立て直される。そして、起死回生と呼べるほどの覇気が、全身の隅々にまで漲るのである。


ーーなんて酷い人たちなんだろう!


 最後に残されたもの、それは怒りだった。無法を働く悪漢どもと、ただ怯えるだけの自分に対する、純粋な怒りだった。自覚したなら気持ちは止められない。ヒナタは胸を張り、車外へもよく通る声で怒鳴り付けた。


「やめてよ! 暴力なんか振るわないで!」


 その言葉を聞いた悪漢たちは、ひととき攻勢を止めた。次いで汚ならしい声で嗤いだす。中には本当に腹を抱える者さえ現れる始末だ。


「やめろって何だよ! そんなんで引っ込む訳ねぇだろが!」


「コイツ頭悪すぎだろマジで。状況理解してんのかよ」


「アッハッハ、聞きてぇな。この女がどんな風に泣き喚くのかをさぁ」


 制止の言葉は意味を成さなかった。それどころか、男たちの劣情と嗜虐心(しぎゃくしん)を焚き付けただけの結果に終わる。


 間も無く焦れた男たちは、情欲に突き動かされる獣と化した。攻勢は強まる一方で、車体を足蹴に、手にした武器もしたたかに叩きつける。やがて万全と思われた防備も綻びを見せ、窓ガラスに細かなヒビが走るようになった。


 こうなれば突破されるのも時間の問題だ。ヒナタは車内の荷物を漁るが、対抗できそうな道具は見当たらない。せめて刃物をと願っても、手にするのは電球ばかりである。


 そんな彼女の耳に、微かな音が鮮明に響いた。その金属音は車内の前方から発せられた。弾かれたようにして目を向けると、揺れるキーホルダーの鈴が金具に当たるのが判る。


ーーそうだ、運転出来るんだった。


 その事を思い出すと身を捩らせ、運転席へと潜り込んだ。脳内で教習所の記憶を手繰り寄せ、厳つい教官の顔を思い出しながら車のキーを捻る。


 すると幸先良くもエンジンは直ぐにかかり、車体から頼もしい躍動感が伝わってくる。続けてヘッドライトを点灯、シフトレバーをドライブモードに切り替えた。それで微速ながら前進し始める。


 それを黙って見送る暴漢ではない。進路に立ちはだかる事で、行く手を阻もうと目論んだ。


「テメェ、逃げてんじゃねぇよ!」


 フロントガラスに鉄パイプが振り下ろされる。ヒナタは咄嗟に身を屈めたが、特に変わりは無かった。ただし彼女自身に限っては。


 急変したのは車の方である。彼女が屈んだ拍子でペダルを踏み込んででしまったからだ。俗に言う、アクセルペダルを。


 意図せず発せられたヒナタの指令を、マシンは忠実に実行した。怒りに燃える猛獣のような咆哮をあげ、悪漢どもを紙クズ同然に撥ね飛ばし、そして暗闇の中を猛スピードで疾走し始めた。ウィニングランにしては長すぎる道のりを。


「きゃあああ! 速い速いッ!」


 彼女を窮地から救いだしたのは、乙女の貞操を守る騎士ではなく、気まぐれに破壊を繰り返す怪物であった。車はほぼ制御不能だ。通りすがりに花壇を踏み荒らし、あるいは看板を蹴散らしながら暴走する。


「足が抜けない! 何でよ!?」


 ヒナタの不運は履き物に由来する。保温と防刃に優れた靴は、運転には不向きだったのである。弾みで踏み込んだ事により、靴先が見事にアクセルとブレーキの両ペダルの間に嵌まってしまったのだ。


 おかげでアクセルから足を離せない。更にはブレーキを踏もうとすると、連動してアクセルまでも押し下げてしまうのだ。そもそもブレーキペダルは、靴が邪魔をしてほとんど踏み込めないのだが。


「誰か! 誰か止めてえぇぇ!」


 キャンパス内がほぼ無人であった事も手伝って、車は衝突せずに済んでいた。しかし広々とした道であるとは言え、車道ではない。あちこちに段差や階段が点在し、そこを乗り越える度に車は跳ね、バウンドを繰り返す。曲がり角も車の尻を振りながらの急ハンドルだ。歩道とは思えないスピードで駆け抜け、直進が不可となれば同じようにハンドルを切る。


 まるで映画のワンシーンを思わせる運転だが、完全に運だけでこなしていた。技術面で言えば、仮免許にも満たないレベルである。いつ事故を起こしてもおかしくはない。それは彼女自身が誰よりも理解していた。


 こうなればもはや半狂乱であった。力づくで足を引っ張り、それでも抜けないとなると、両手まで使ってまで靴を取り出そうと試みた。幸いにも今は長い直進だ。この機を逃せば、次の曲がり角で命を落とすかもしれない。


「ぐぬぬぬ……この野郎ッ!」


 渾身の力で引き抜くこと数度。ようやく靴は自由となり、ペダルから引き離すことに成功した。これにはヒナタも手放しで喜ぶのだが……。


「やったぁぁ……あああーーッ!?」


 彼女の窮地は終わらない。その眼に建物の入り口が飛び込んできたのだ。左右に逃げ道は無く、取るべき手段はひとつであった。


 思いきりブレーキを踏み込む。急すぎる停止命令に、車は横滑りしながらも前進を続けた。タイヤの擦れる音は悲鳴にも似て、耳に痛い騒音を撒き散らす。


 それでも、とうとう止まりきる事ができなかった。ガラス張りの正面玄関を枠ごと打ち破り、けたたましい音とともに乱入した。終いには片輪が大きく宙に浮かび上がり、横転の気配を匂わせながらも、再び地にドスリと落ちた。これにてようやく停車したのである。


「し、死ぬかと思った……」


 ヒナタはハンドルに突っ伏したまま動けずにいた。滝のような冷や汗、渇いた瞳には涙が盛り上がり、心臓も早鐘を打つように血液を脳に送り続けた。それでも放心は治まらない。死に直結しかねなかった数々のシーンが、まるでスライドショーのように脳裏を駆け巡ったからだ。


 そのため、窓を叩きながら叫ぶ男の存在に、ヒナタはなかなか気付くことが出来なかった。  

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