第9話 食い気に勝るものなし
「ねぇ、本当にやるの?」
ヒナタは恥じらいを覚えて身を縮こませた。先ほど交渉の為にお色直しを終えた。上半身はコートを着用したままだが、裾の隙間からは艶やかな太もも、そして手入れの行き届いた足先が露(あらわ)となっている。
これには発案者であるケイゴも返答に窮した。本当にやるべきか否か、彼の中でも揺れているのである。しかし他に打開策はない。せめて有益な情報だけでも、相手から引き出す必要があるのだ。
「頼む。もうこれに頼るしか無いんだ」
「でも、大丈夫かな。逆に気を悪くさせそうじゃない?」
「確信までは持ってないけど、そうはならない。さっきドアが閉まる瞬間に見たんだよ。壁一面にポスターが飾られているのをさ」
「ポスターって、もしかして?」
「そう。例のゲームのやつだ。きっとかなり濃いマニアなんだと思う」
ヒナタがわざわざ着替えた衣装とは、コスプレ用として準備した『エルイーザ』の装いである。それは一枚の布だけで上下の衣服としてしまう、極めて官能的な姿。もちろん交渉の場には不適切であり、ヒナタに限らず大抵の人間は尻込みしてしまう事だろう。だから彼女が恥じ入るように裾を握りしめ、ケイゴの真後ろに佇むのも当然と言えた。
「やっぱり、ちょっとやりたくないかなぁ、なんて思っちゃったり」
「そこを何とか頼めないか、エルイーザ?」
「えっ……?」
「でもまぁ、さすがの女神でも不可能な事くらいあるか」
「……アァ?」
「オレが悪かったよエルイーザ。お前に無理をさせる訳にはいかない……」
「不可能だと? ふざけんな、誰に物言ってんだゴミカス野郎! 股間の小汚ねえ棒切れを引きちぎって額に飾ってやろうかコラ!」
会話の最中にヒナタの様子が激変した。眉間には渓谷のごとき深いシワが刻まれ、眼力は他者を威圧するほどに鋭く、口許も全てを嘲笑うかのように激しく歪む。ケイゴは彼女の『入りやすい』性質を悪用したのだ。今この瞬間ばかりはヒナタという少女はこの世に存在しない。エルイーザという名の傲岸不遜なる『女神』だけがここに居るのだ。
(すまんヒナタ。せめて出来る限りの事はしてやるから)
ケイゴは心の中で固く誓った。対話に困れば助け船を出し、不測の事態からも守ってやろうと。だが、当の彼女は全くアテにしてはいない。投げ捨てるようにコートを脱ぎ去り、正装に身を改めると大股開きで侵攻した。そしてドアの前に立つなり踵で足蹴にし、荒くれ者同然の声で怒鳴ったのだ。
「オラ開けろクソガキ! さもねぇとケツ穴に安酒ブチ込むぞ!」
前代未聞の恫喝スタートである。これにはケイゴも目を白黒させて驚いてしまう。ヒナタのなりきりブリは完璧だ。人格は勿論の事、声の抑揚とタメ具合に細々とした仕草や足技のキレなど、その再現度は極めて高い。正に生き写し、いや降臨とまで断じてしまって良い。
そして唐突な変貌に驚いたのは、ドアの向こうに隠れる男も同様だ。ドアに据え付けられた覗き穴より、つぶさに一部始終を観察していたのである。
「エ、エルイーザ様だと!?」
驚愕一色に染まった叫び声とともに入り口が僅かに開けられ、空いた隙間から男が覗き込んだ。その刹那にエルイーザがフット・インザドア。この鮮やかすぎる身のこなし、押し入り強盗も思わず刮目する程である。
「おうテメェ、おっせぇんだよ。いつまでアタシらを寒空の下に置いとく気だい?」
「……気が利きませんで。どうかお許しを」
何がどう作用したのか、男は恭しい態度を取るなりドアを開け、狼藉者たちを受け入れた。更にはその場に跪き、さながら高貴な人物を出迎えるような姿勢を取ったのだ。あまりにも想定外すぎる展開に、ケイゴは入室をためらってしまう。一方のエルイーザは、さも当然だと言わんばかりに、鼻を鳴らしながら堂々を足を踏み入れた。
「さてと。この落とし前、どうつけてくれんだよ?」
「もはや弁明は無粋。何卒ご指導を頂戴したく存じます」
「ふぅん。自分から言うんだ。ちったぁ躾が出来たゴミ野郎だな」
「滅相もない。ただの不出来者にございます」
「まぁいいや。ケツ食いしばれオラァ!」
エルイーザ渾身の蹴りが男の頬に炸裂。それはサッカーで言うボレーシュートのようで、足は見事な軌跡を描いた。無遠慮に振り抜かれた事で、成人の男といえども体ごと吹き飛ばされてしまう。この頃になってようやく我を取り戻したケイゴが介入、事態の収拾を計った。
「ヒナタ、やり過ぎだって!」
「ん? えっ? ごめんなさい! つい、盛り上がっちゃって……」
「とりあえず着替えてきなよ。こっちはオレがやっておくから」
「うん。ごめんねぇ……」
「おいアンタ、大丈夫か? しっかりしろ!」
呼びかけに返事はない。男は痛烈な一撃を見舞われた事で失神したのである。その顔はどこか笑っているようだった。ちなみにうわ言で「ありがとうございます」と繰り返すのを、ケイゴは空耳だと思う事にした。
しばらくして。ヒナタが邪気を祓い、普段着に着替えた所で、男は2つの意味で目を醒ました。激昂して殴られる事さえ危惧したが、意外にも丁重に迎い入れられたのだった。
「お初にお目にかかる。私はロジー。大学講師で専攻は社会心理学。以後よろしく頼む」
テーブルを挟んでの自己紹介が始まった。理路整然かつ毅然とした姿で語る男からは、先ほどの寸劇に見せた失態とは釣り合わない。容姿も淡麗だ。金色で艶やかな長髪を後ろ縛りにし、分けた前髪から覗く瞳は蒼い。そして鼻筋も通っており、肌も透き通る程に白い。ここまで整ったものが眼前にあると、ケイゴは気後れに似た感情を抱いてしまう。
しかし、ロジーの背後にあるポスターがその気分を中和した。卓上型のルームランプに照らし出された壁や棚がアニメ調の代物で埋め尽くされているのだ。ヒナタの様子を盗み見ても、別段見惚れている様子も無い。そこまで知ると、ケイゴは一応の落ち着きを取り戻した。
「体が冷えてしまったろう。茶でも飲むかね」
「有難いけど、こっちは無理矢理押しかけた側だろ。そこまでして貰ったら悪いな」
「遠慮する事はない。それとも紅茶は苦手か?」
「いや、いただきます!」
「では用意をしよう。しばし待ちたまえ」
ロジーがテーブルにカセットコンロを置くと、陶器のポットに火をかけ始めた。久方ぶりに見る文明の火。ケイゴたちは思わず胸が躍り、それは口数になって表れた。
「ここ、ロジーさんのお家なんですか?」
「殺風景だろう。自宅には違いないが、ここは倉庫として扱っていた部屋だ。普段は主に上のフロアで暮らしていた」
「そっちは使わないのか?」
「地震ですっかり崩れてしまってね。今となっては住むに堪えず、たまに物を取りに戻るくらいだ。つまりは立場が逆転してしまった形だな」
「でも、この部屋は随分キレイですね。風穴も空いてないし」
「それが私にとって数少ない幸運だったと言えるな。さぁ出来た、飲みたまえ」
温かな湯気の上るティーカップが2つ。縁を口許に近づけただけで、熱気を孕んだバラの香りが顔面に漂った。息を吹いて冷ますだなんて勿体無い。唇に試練でも与えるかのように、すぐさま口をつけた。啜ると舌や頬肉が悲鳴をあげる。それでも2人は顔を綻ばせつつ飲み続けた。
「美味い……紅茶ってこんなに美味しかったんだな」
「熱い! でも暖かいよう!」
「君たち。その様子だと、満足な食事も摂っていないのでは?」
「まぁその通りだよ。まともなモン食ってない」
「ほとんど絶食みたいな感じだよね。それか無茶なダイエット」
「ふむ。大層なものは用意できないが、そちらも準備しよう」
ロジーはそう言って席を立つと、壁際に積まれた段ボール箱を漁り始めた。そして2つのカップラーメンを手にして戻り、再び湯を沸かした。
「もしかして、その段ボールの中身って……」
「全てが即席麺の類だ。私は物臭な所があってね、常日頃から買い貯めをしていたのだよ。不摂生の象徴も災害時には珍しく役に立ってくれた」
「すげぇ数だ。それだけあれば、何日も食うのに困らないな」
「まぁ、食料だけが豊富でも意味を成さないがね」
「どういう事だ?」
「そうだな。これは君たちを友好的に受け入れた理由にも繋がるんだが……。さて、どこから話すべきか」
そう言葉を切ると、ロジーは2つの容器にお湯を注ぎ、思案顔のままでケイゴたちに差し出した。ここで3分待つ。とはならず、ケイゴは蓋を早々に開けてしまい、麺を箸で解し始めた。その1秒すら惜しむ姿をヒナタも真似た。
「よし、こうしよう。まずはこの地球で何が起きたか、私の見立てを聞いて貰おう。そんな料理がメインディッシュでは、君たちも満たされないだろう?」
「うんめぇ! マジでうんめぇ!」
「あふい! でも、おいひいぃ!」
「……では、デザート代わりに話すとしようか」
2人が盛大に舌鼓を打つ。腹だけでなく胸まで心地よく暖まり、汁を全て飲み干すという御法度も当然のように実行された。何日ぶりかの満足感に、気分も上々といった所だ。
だがしかし、気分を良くできたのもここまでだ。この後に展開されたロジーの考察、異変についての推論を聞く事で、彼らの意気は地を這うほどに落下してしまうのである。
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