第8話 起死回生の下策
ケイゴとヒナタは大学通いを機に上京した身である。更に言えば、ヒナタはこの街にマンションを借りているので土地勘も十分だ。そのため地図やネット検索も無しに、避難所となり得る学校についておおよその場所を把握している。彼女が案内人となるのも自然な事だった。
「最寄りの学校って遠いのか?」
「ううん。確かね、この路地裏を進んだ所に小学校があったと思う」
「この、路地裏ねぇ……」
以前であれば正しいルートも今となっては通用しない。道沿いの民家は全壊、よくて半壊という状態なのだ。辺りには壁や柱などの木片、割れて砕けた瓦にコンクリート片などが散乱し、ただでさえ狭い道を見事に塞いでいる。まるで廃材で作られた歪な丘陵だ。いまだかつて経験した事のない悪路だが、2人は手を取り合って支え合いながら乗り越えていく。
「ちゃんとした靴が手に入って良かったね。パンプスだったら今頃傷だらけになってたよ」
「登山靴の有り難みが分かるよな」
「ほんとほんと。こうして必要な物が手元にあるんだから、ツイてるよね」
「ああ。そうだな」
その運が向いているうちに避難所へ。ケイゴは胸の中で一言付け加えた。状況は依然として厳しい。食料を切り詰めても、あと数日で尽きる事は確実だ。廃墟からの補給が絶望的となった今、一刻も早く生きる算段をつけねばならない。
それから幾つもの『丘』を乗り越えると、ようやく目的地へと辿り着いた。都会にしては敷地の広い公立小学校だ。だが、外から眺めてみても人気は感じられず、ひどく閑散としていた。校舎や体育館らしき建物からは灯りのひとつも無い。LEDライトを向けてみても、災害による爪痕の甚大さが明るみになるばかりだった。
「着いた。けど、ここは避難所じゃないのかな」
「これを見ろ。地図みたいなもんがあるぞ」
ケイゴが校門を指差した。銘板には1枚の紙が被さるように貼り付けられており、そこにはこう書かれている。『避難所は第一中学校に移転しました』と。余白には手書きの簡易地図も書き添えられていた。
「避難所、移動しちゃったんだね。行き違いかぁ」
「ヒナタはこの地図で場所が分かるか?」
「うーん。あんまり自信が無いかな。それに結構遠いと思う。橋を渡らなきゃいけないし」
「遠くても行くしかない。がんばろう!」
「うん、わかった!」
ケイゴは振り返ろうとしてライトの向きを変えた。その時一瞬だけ校庭が明るく照らし出されたのだが、その異様な光景には思わず体が凍りついてしまった。
そこには楕円形に土が盛られており、すぐ側には木片が突き立っている。そんな見慣れないもので広い校庭は埋め尽くされていた。一体何なのかは考えるまでもない。死者を弔う為に埋めたのだ。
「これ、全部が墓なのか」
「そうみたいね。こんなに沢山の人が亡くなってるだなんて……」
墓標に見立てた木片には校門で見かけたような紙が貼り付けられており、吹いた風に煽られて乾いた音を響かせる。そこに書きこまれた数々の言葉たち。それも紙片の動きに合わせて揺れに揺れた。
ーーどうにか助けてあげたかった。役に立てなくて、本当にごめん。
ーー身元不明の女性。20代の中背中肉。足首に蝶の刺青あり。
ーーりっちゃんへ。お父さんは死んでしまったけど、お母さんはどうにか生きてます。第一中学校で待ってます。
ーーパパとママがぶじに、てんごくへ、ゆけますように。
この場にどれほどの悲劇が、悲しみが埋まっているだろうか。生存者は断腸の想いで死者を弔い、この場を後にしたのだ。被災して僅か数日。変わり果てた世界を、そして近しい者の死を受け入れるには、あまりにも短すぎた。その困惑ぶりについては、『感染症予防のため掘り起こしを禁止します』と書かれた立て看板が何よりも物語っている。
死別の辛さというものは実に耐え難い。それが突然に奪われたのなら尚更だ。ケイゴたちも同じ被災者であるため、その痛みが自分の事のように突き刺さった。2人はそれぞれ合掌し、哀悼の意を示す。哀しみだけでなく、明日は我が身という不安も内包した弔意を。
「どうか、安らかに眠ってください。それと、お供え物が無くてごめんなさい」
消え入りそうな謝意が述べられると、2人とも祈りを解いた。そして、避難所を求める旅が再開するのだった。
「さて。そろそろ第一中学校とやらに向かおうか」
「そうだね。まずは橋を渡らないと」
「橋はここから遠いんだっけ?」
「そんなには。歩いて15分くらいじゃないかな。とりあえず大通りに出るよ」
橋への最短ルートは大通りとも呼ぶべき幹線道路を行く事だ。片側2車線の、裏路地とは比較にもならない程に広々とした道。だからと言って、決して歩きやすい訳ではない。
これまで見かけた遮蔽物に加え、大きな街路樹が倒れ、通る者を阻もうとして道を塞ぐのだ。所々に放置された車も、焼け焦げるか横転するかしており、通行人を阻害しようと目論む。それらを避けるためにも、直進の道で常に大回りを強いられてしまうのだ。
次第に重くなる足、先が見えるのに蛇行しなければならない苛立ち。コンディションが徐々に悪化していく中で、更なる苦境が彼らを襲う。
「ねぇケイゴ君。見て」
「まさかとは思うが……間違いないよな」
白い塊が手のひらの上で、ジワリと溶ける。とうとう雪が降り始めたのだ。疲労困憊の見えた身体に、いくつもの粒雪がまとわりつく。ケイゴはそれを一気に振り払っては、語気を強めた。
「ヒナタ、絶対に服を濡らすなよ。下手したら凍死するからな!」
「う、うん。わかった!」
暖を取る手段の無い現状では衣服を濡らす訳にはいかなかった。外気の寒さもあいまって、体温を著しく奪い去り、低体温症に陥ってしまう危険性があるからだ。十分な対処をせずに眠ろうものなら、再び目を覚ます事は無いだろう。
この窮地を乗り切る手段は乏しく、コートの前をしっかりと閉じて雪の侵入を防ぐ事くらいだ。防水性が高い上にフード付きであるので、酷く濡れそぼる事は無い。それでも剥き出しの手が、顔や耳からは徐々に体温が奪われていく。事実、指先からは感覚が薄れ始めていた。
(急がねぇとマジでヤバイぞ……)
ケイゴの血が激しく脈を打ち、胸の奥に冷たいものが走る。死の予感が色濃くなったのだ。これまでより一歩近くまで踏み込まれたような気になり、恐れが、おぞましさで心が染まってゆく。
ここで希望を見出すとしたら、道の先にしかない。ライトの光で微かに鉄骨が浮かび上がると、心に多少の張りが戻る。橋まであともう少し。それを自分に言い聞かせる事で気力を振り絞り、前進する活力を引きずり出す。
「よし。どうにか辿り着いたな!」
「なんだか、凄く疲れちゃったね」
全長30メートルにも及ぶ立派な橋を、足元をフラつかせながら進む。しかし、その歩みも数歩で止められてしまう。ライトが照らす円状の視界に地面が無かった。つまり、橋は大部分が崩落していたのである。
「どうしよう。これじゃあ通れそうに無いよ」
「ヒナタ、別の橋は無いのか? 遠くても構わないから教えてくれ」
「たぶん、あるとは思う。でもアタシは知らないの。ごめんね……」
「参ったな。チクショウ!」
橋から上流、下流をライトで照らしてみる。しかし、燦然と輝く太陽の元ならいざ知らず、手持ちの明かりでは遥か遠くまで照らし出す事は出来ない。ましてや今は雪模様。移動もなしに、遠く離れた場所について知り得る事は不可能だった。
ケイゴは、ここが運命の別れ道だと直感する。このまま強行して避難所を目指すか、それとも倒壊の危険に怯えながら廃屋で一夜を明かすか。どちらも相応の危険が伴うものであり、心の天秤は定まる事なく延々と揺れ続ける。
(どうしたら良い。最善の手段は何だ……)
焦りに思考が焼けつく。距離は、時間は、自分とヒナタの体力は。計算しようにも思考は空ペダルを漕ぎ続けてしまう。
しかし、時間は待ってはくれない。この苦境を嘲笑うかのように、雪は深々と降り続ける。白んでいくアスファルトも脅迫的だ。決断を急げと、ケイゴたちに無言で迫るのだ。
「よし、ヒナタ。別の橋を探しに……」
「ケイゴ君あそこ!」
「えっ?」
「いま、そこに誰か居たよ!」
ヒナタが近くの路地を指差しながら声をあげた。その言葉を裏付けるように、軽快な足音が遠ざかっていくのが聞こえる。その瞬間にケイゴは身を翻した。
「追いかけるぞ!」
「うん!」
逃げる影を追って暗闇の中を駆けた。消耗しきった体に残された力は、もはや底が見えている。この追跡は賭けだった。相手が友好的である事に。そして、何らかの協力関係を築ける事に。
「頼む、待ってくれ!」
逃げ去る人物の気配が変わった。ケイゴたちの動きを察知したのである。それでも相手は立ち止まったりはせず、さらに奥へ奥へと逃げていく。
賭けには失敗した。だがここまで来ては引き返せない。『せめて何か成果を』と、すがるような想いで走り続ける。
やがて前を行く男は、民家の敷地内へと入っていった。そして階段を駆け降りると、ドアの向こうへと消えた。ケイゴたちがやってきた頃には、既に施錠まで終えた後だった。
「お願いします、助けてください!」
ドアを叩きながら、ヒナタは懸命に懇願する。しかし鉄製の扉はビクともせず、開く気配も見せはしない。何度叫ぼうとも、返事は無しの礫(つぶて)であった。
「どうしよう。諦めるしかないのかな……」
悲嘆に暮れるヒナタ。しかし、それとは対照的にケイゴは思案顔だ。しばらくの間思考を巡らせ、筋道が定まると、ヒナタの両肩を強く掴んだ。
「なぁヒナタ。嫌だったら断ってくれて構わない。だけど、ひとつ頼まれてくれないか?」
ケイゴはドアが閉まる寸前に見たのである。部屋を彩る内装の一部分を。そして、そこに微かな光明を見いだしたのだ。
(しかし、生きる為とは言ってもな……)
窮地をひっくり返す起死回生の閃き。それでいて口に出すのも憚られる程の不道徳さ。
後にも先にも、これが最も下衆な交渉になるだろうと、実行するまでもなく確信するのだった。
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