第7話 希望は手のひらの中に

 ケイゴは久しぶりに、充足感を覚えながら起床した。比較的暖かな寝床が質の良い眠りを提供してくれたのである。少なくとも、関節の痛みと共に目覚めるよりは遥かに快適だというものだ。


「もうこんな時間か……」


 スマホの時計から、思いの外長く眠っていた事に驚かされてしまう。疲労は肉体ばかりでなく、精神をも蝕むからだ。まだ若い男にとって心の疲れとは縁が浅い。


 体はすぐに渇きを訴え、水分をせがむようになる。ペットボトルの水を一口、二口と飲みこむと、胃に僅かな不快感が漂い、しばし居座った。飲み水に適してないのではと、改めて不安が過る。そんな心境も、ヒナタの身動ぎとともに薄まり、霧散していった。


「ケイゴ君、おはよう」


「おはようヒナタ。水いるか?」


「うん。貰うね」


 ヒナタは寝ぼけ眼のままでペットボトルを受けとると、それを一気に呷り、喉を鳴らしながら飲み始めた。そして何かの宣伝のように、景気良くプハァと息を吐く。


「その水を飲んでも、お前は平気なのか?」


「え? まぁね。ちょっと薬臭いとは思うけど」


「そうか。オレが気にしすぎなのかもしれないな」


「ミネラルウォーターとか欲しくなるよね。ところで今は何時?」


「午前8時を過ぎた頃だ」


「やっぱり、暗いままなんだね」


 ヒナタは辺りを軽く見渡し、失望したように呟いた。依然として日差しの差す窓はなく、暗闇が広がるばかりだ。悪天候などといった次元ではない。深夜の森にでも迷い込んだような闇は、ケイゴたちを覆ったままである。この動かしがたい事実が、心に重たくのしかかるのだ。


「ともかくさ、準備して飯食ったら外を探索しようか」


「そうだね。無いものねだりしても意味無いもん」


 いくらか気落ちはしたものの、2人の動きは機敏だった。熟睡が好コンディションをもたらし、一新された装備も力を与えてくれるようである。


 ヒナタの足も治療が施された。布切れを包帯代わりに巻き付けると、捻挫の痛みは和ぎ、支え無しに歩けるようになった。これにて準備は万端。簡単な食事を終えるなり、意気揚々と出発したのである。


「ケイゴ君。今日はどうするの?」


「昨日と同じく探し物をメインにしたいな。食料、生存者、あとは情報とか」


「情報って、なんの?」


「避難所についてだな。どこに行けば救助してもらえるか、薬や食料を分けて貰う事は可能か、そういった事が知りたい」


「なるほどね。じゃあそんな感じで行こうー!」


 少し浮かれ気味な声とともに駅ビルを後にした。その態度は不謹慎さでからはなく、強がりから出ている事をケイゴは知っている。だから左手はヒナタの手を強めに握り締め、空いた手で無明の街を照らす。


 かつてバスロータリーとして造られたスペースを、瓦礫の鳴る音を聞きながら越える。そうして次に辿り着くのは駅前商店街だ。従来通りであれば、人の往来が激しいエリアである。お馴染みのチェーン店がひしめき、合間に個人経営の喫茶店や専門店が顔を覗かせる他、日用雑貨までも手に入るという流通と娯楽のスポットだ。見上げれば雨よけのアーケード。道の左右には季節の花々を植えたプランターが並び、利用客にささやかな心地良さを与えてくれたものだ。


 それが今では見る影もない。アーケードを支えていた柱はねじ切れ、天井は余さず地面で潰えている。プランターは軒並み横倒しで、土や花を辺りにばら巻く有り様だ。また、どこかの店から飛ばされたのか、大小様々なチラシが数えきれないほどに散らばってもいた。


 しかしそれらは序の口。建物にライトを向けて見たなら、ほとんどのビルが横倒しになっている事がわかる。2階辺りで折れ、下の基礎部分からも大きくズレて、隣のビルに寄り掛かってようやくバランスを保っているのだ。まるでドミノだ。構造上、倒壊を免れた建物もあるにはあるが、こちらは1階部分が潰れてしまっており、まともに保全された施設はひとつとして無かった。


「これは酷いな。完全に廃墟だ」


「やっぱり壊れちゃってるよね。あそこの喫茶店、好きだったのに。雰囲気良いから作業が捗るの」


「諦めるしか無さそうだな。それよりもホラ。コンビニまで行ってみよう」


「そうだね。電池を探さなくっちゃ」


「あと水と食料もな」


 商店街の随所には、国内シェアトップクラスのコンビニが数件ある。まだ手付かずであったなら、大量の物資を確保できるのだ。缶詰に水、電池、医薬品。他にも石鹸やカッターナイフなど数え上げればキリが無い程で、この状況下では宝物庫にも等しい。たとえ空振りに終わったとしても、足を運んでみるだけの価値はあると言えた。


 そうして商店街の通りを半ばまで進んだ頃だ。ケイゴは人の声を聞いて思わず足を止めた。空耳の可能性を疑う。しかし神経を研ぎ澄ませると、同じ言葉が延々と繰り返されている事に気づいた。


ーーうふ、うふふ。


 笑う声。ケイゴはそう認識すると、すぐにヒナタを見た。少し青ざめた顔がコクリと肯首する。待望の生存者だ。しかし、その不気味さから素直には喜べず、警戒しながら声のする方へと向かった。


 一歩路地裏へと進むと大型のゲームセンターに差し掛かる。ここは比較的被害が少なく、1階部分に所狭しと並ぶUFOキャッチャーは在りし日を思い出させる程だ。そして、そこでケイゴたちは目の当たりにした。暗がりの中で、大小のヌイグルミと戯れる初老の男の姿を。


 相手はこちらに背を向けている。なので、表情は全く見えないまま、断続的な笑いだけが聞こえるのだ。シンナーのような鼻をつく臭いも漂っている。この尋常ならざる光景にケイゴも躊躇したが、半分ヤケになったような心地で声をかけた。


「あの、すみません。お話を聞かせてもらえますか?」


 男は笑うのを止めた。そしてゆっくりと首から上が振り返り、遅れて体全体がケイゴの方へと向き直る。暗闇で独り笑う者。それは異形な姿も相まって、更なる不信感を見るものに抱かせてしまう。


 男は上半身が裸で、胸の所に大きく瞳を模した絵が描かれている。赤い塗料が端から垂れ、まるで血の涙でも流しているかのようだ。そして、下半身は夏を偲ばせる半ズボンにサンダル。見ている側が寒気を覚えてしまうが、本人は意に介してはいない。今現在もなお冷え込みが厳しいにも関わらずだ。


 そんな男が片手にライト、もう片手にはウサギのヌイグルミの頭を握りしめて出迎えるのである。警戒して当然の対話だ。ケイゴはヒナタを庇うようにして立つ事を、不躾とは思わない。


「うふ、なんだぁお前ら。うふふ、赤い星の連中じゃないだろうなぁ?」


「赤い星……って?」


「うふ。とぼけてんじゃねぇ! 3日前にブワァってなったろう! 空いっぱいの赤、赤、赤い星!」


「ええと、すみません。オレたちは地下鉄のホームにずっと閉じ込められてたんで、分からない事が多くて」


「嘘だ、嘘だ嘘だ。赤い星は信用しちゃいけねぇ。信用しちゃダメなんだ。気ィ許したら内臓引っこ抜かれて空っぽにされちまう。うふ、うふふ」


「いや、あのさ、何言ってんのか全然分かんねぇよ。もう少しちゃんと話してくんないかな?」


 男はケイゴの問いかけには答えない。再び座り込み、延々と独り言を繰り返した。瞳は焦点を失い、虚空の闇をボンヤリと見つめているようである。


 埒が明かない。ケイゴは立ち去ろうとして半歩だけ退いた。しかし、その動きに反してヒナタは前進、会話を繋いだ。


「あの、おじさんは何をしてるんですか?」


「アァ? 見てわかんねぇのか。儀式だよ」


「儀式?」


「星の連中はずっと見張ってるんだよ。それが怖くて、お天道様もお月さんもどっかいっちまった。でもオレは逃げねぇ。これだけ吊るしときゃ見つかることはねぇからな」


「確かに、色々とブラ下がってますね。これが何かの役に立つんですか?」


「あいつらは悔しがってるだろうな、うふ。オレの姿が見えなくなってよう。うふふ。頑張った甲斐があるってもんよ」


 男がライトを向けた先は、狂気によって存分に塗り替えられていた。無惨にも吊り下げられるヌイグルミたち。ウサギは耳、タヌキは尻尾といった具合に、種類によって部位を変えて糸を括りつけられているのだ。そして腹は切り裂かれ、はみ出した綿が赤ペンキで染められている。それが暗闇の中でライトの明かりを浴び、一層禍々しさを際立たせるのだ。


(ここは、長居しない方が良い)


 静かなる狂気から危険を察知したケイゴは、ヒナタの腕を強く引いた。しかし彼女は尚も質問を重ね続ける。


「ねぇおじさん。近くに避難所はありませんか?」


「どこに居てもおんなじだ。ヤツラはしつこくこっちを見てきやがる。朝も夜も、今日も明日も明後日も」


「自衛隊とか、災害救助をしてる人たちは居ませんか?」


「誰だって自分が一番だぁ。オレだってこんな酷い事したかねぇよ。でも生きなきゃならねぇ。堪忍、堪忍な」


 男は要領を得ない返事を繰り返すと、手にしたハサミでヌイグルミを裂き始めた。ブチ、ブチチと不快な音が辺りに響く。いよいよ刃物がお目見えした。もう潮時だろうと、ケイゴは確信めいたものを感じる。


「生き残った人は、他にいませんか? あなたはどこで寝泊まりしてるんですか?」


「ヒナタ。いい加減引き揚げよう」


「でも……まだ何も分かってないもの」


「ああそうだ、そうだよ何も分からねぇ! どうしてこんな目に遭わなきゃならねぇんだ! 悪い事もせず真面目に生きてきたこのオレが! このオレがッ!」


「お、おい。落ち着けって……」


「何だお前ら、まだ居やがったのか! 出ていけ、ここはオレのもんだ! 早く出ていけよッ!」


 男はハサミを逆手に持ち変え、刃を床に激しく叩きつけた。叫び声も最早言葉にはなっておらず、奇声そのものでしかない。ケイゴはヒナタを抱えて出口まで退がると、そのまま大通りまで駆け抜けた。


「クソッ。何だよアイツ、訳が分からねぇ」


「せっかく生き残った人と出会えたのに、話が通じなかったね」


「もう仕方ねぇよ。他を当たろう」


「うん、そうだね。あの人には近寄らない方が良さそうだし」


 困惑の覚めやらぬまま、通りの探索を再開した。この商店街は広い。表通り沿いだけでなく、裏路地にも多種多様な店がいくつも並んでいる。しかし、くまなく探索しても成果は中々得られない。


 廃墟に等しい建物を照らしては覗き込み、侵入可能となれば足を踏み入れた。時には道を塞ぐ瓦礫の山を乗り越え、一帯を出来る限り調査した。しかし、あらゆるものが埋められてしまい、もはや収集どころでは無いのだ。


 諦める気持ちが徐々に色濃くなっていく。そんなケイゴの元へ、一枚の紙切れが風に運ばれてきた。胴に絡むようにしてまとわり付く。舌打ちと共に引き剥がし、捨てようとしたが、その手がひととき止まる。そして書かれた言葉を黙読すると、苛立ちを隠さずに紙を丸めてしまった。クシャクシャと鳴る音が、怒りを代返するかのように響く。


「ケイゴ君、どうかした?」


「気にすんな。タチの悪いイタズラだよ」


 A4サイズの紙には『人類は滅亡する』と、大きく殴り書きされていた。縁起でもないと憤慨し、丸めた後は建物の方へ投げ捨て、ヒナタの目から遠ざけた。所詮は何の意味も持たない雑言である。わざわざ気分を害するような言葉まで共有する気にはなれなかった。


(何が滅亡だ、ふざけんな!) 


 呪わしい運命を黙って甘受するには、彼はまだ若すぎた。むしろ発奮材料となり、絶望に塗れた言葉を置き去りにする。瓦礫や紙片を踏みしめる足は力強く、生への執着を如実に語るようである。あるいは未熟さゆえの八つ当たりとも言えた。


 それからも丹念に調べ回るが、やはり収穫はない。代わり映えのしない廃墟に瓦礫、遮蔽物。半日近くかけての探索が徒労に終わろうとしている。もう少し遠くまで足を伸ばそうか、そんな言葉が飛び出すなりヒナタが強く遮った。


「ねぇケイゴ君。あそこは入れるんじゃない!?」


「ほんとだ。まだ崩れてない、行ってみよう!」


 2人が向かったのは商店街の端に佇むコンビニだ。入り口前に、お馴染みのロゴ入り看板が崩れ落ちてはいるが、入店そのものには問題ない。何か食べるものは、明日へ希望を繋げられる物はないかと期待するのだが。 


「食い物、なんもねぇな」


「薬もだね。1個も落ちてないよ」


 有用な品物は全て持ち去られた後だった。乾麺にレトルト、缶詰といった保存食は床と棚のどちらにも残されてはいない。医薬品やガスボンベなどの燃料についても同様である。見つかるものと言えば、雑誌に筆記用具ぐらいで、持ち帰りたくなるような品ではない。貴重な時間と労力をかけて成果ゼロ。この結果にはケイゴも落胆の色を隠せなかった。


「参ったな。このままじゃ本当に行き倒れになっちまう……」


「待って! ここに何かあるよ!」


 ヒナタは倒れた棚の隙間を指差すと、その前で跪いた。そして奥に手を伸ばし、手応えを感じた表情を浮かべながら手を戻した。


「ホラ見て、電池だよ! どうかな?」


「単3電池だ! これならライトが使えるようになるぞ!」


「エヘヘ。奥にはまだまだあるよ!」


 ヒナタは得意な顔で再び隙間を漁り始めた。食料不足という根本的な問題は解決していないが、ようやく成果を得られたことに喜びが込み上げてくる。それが昨日拾ったLEDライトに対応していると知れば尚の事だ。


 早速とばかりに封を切り、電池を取り出そうとした。しかしその手は、不意に降ってきた砂ぼこりによって止まる。脈絡の無い出来事に、ケイゴはライトを天井へと振り向けた。


(この砂は、一体どこから……!?)


 ちょうど自分達の真上から、断続的に砂ぼこりが落ちている事を、この時になってようやく知った。改めて神経を研ぎ澄ませると、ミシミシと軋む音が途切れず、延々と鳴り続けている事が分かる。身に迫る危険を察知した瞬間には、既に叫んでいた。


「ヒナタ、ヤバイぞ! 早く逃げよう!」


「えぇ? ちょっと待ってよ。あと少しで取れそう……」


「そんなもんより命の方が大事だろうが!」


 反応の鈍いヒナタを引きずり出しては抱え、そして転げるようにしてコンビニから飛び出した。そして次の瞬間、爆撃でもされたかのような騒音が轟いた。追って、大量の砂ぼこりが止めどなく広がり、2人の視界を奪い去る。両手で顔を覆って凌ぎ、目が自由を取り戻した頃、ヒナタはようやく気付く事になる。


 自分達がついさっきまで居た場所が、天井の崩落により埋まってしまった事を。2階の飲食店から業務用冷蔵庫やら、大きなソファが落下してきた事を、まざまざと見せつけられたのである。時間差で押し寄せてきた震えで声を滲ませつつ、ヒナタは感謝の言葉を述べた。


「ありがとう、ケイゴ君。危うく死んじゃうところだった」


「気にすんなって。それよりも、今後はもう無闇に建物探索は出来ないぞ」


「そうだね。いつ崩れるか分からないもんね」


「チマチマと探し歩いても、いつか力尽きちまう。駅の売店から何も見つかってないし」


「じゃあ、どうしようか?」


「一刻も早く避難所を見つけよう。どこにあるかは知らないんだけどさ」


「それなら、学校を探してみたら良いんじゃないかな。たしか、小学校がこの近くにあった気がする」


「知ってるのか。じゃあ道案内はよろしくな」


 行く宛は決まった。埃塗れの2人が、ライトだけを頼りに闇を切り拓いていく。それは最早、暗中模索そのものであった。


 依然として確たる情報は無い。労力をかけて辿り着いたとしても、不首尾に終わることは大いに有り得る。食料を廃墟から見つけ出すのか、それとも避難所を探し当てるのか、方針の転換は賭けでしかなかった。その両方を実行するには、残された食料も体力も乏しすぎるのである。


ーー人類は滅亡する。


 先程の言葉がケイゴの脳裏に過った。それに伴い、冷たい刃にも似た恐怖が腹をまさぐるように感じられた。死という絶対的な存在が、自分の傍に寄り添っているかのような錯覚。片時も休まずに見張られているような息苦しさ。抗いようのない重石が、彼の若々しい双肩にのしかかるかのようだ。


(気持ちで負けちゃダメだ!)


 弱気を戒める代わりに、ケイゴは指先に力を籠めた。突然のことで、その手を繋いでいたヒナタは弾かれたように顔をあげる。


「なぁヒナタ」


「どうかした?」


「オレたち、絶対に生き残ろうな。どんな事があっても」


「うん、もちろんだよ。約束ね!」


 繋いだ手に強い力が返ってきた。掌に感じる暖かな温もり。寒さと不安が押し寄せるなか、それだけがケイゴに生きようとする活力を与えてくれるのだった。

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