第5話 変わり果てた世界

 トンネルの奥深くから、2つの声が掛け合いを見せる。もしその様子を駅のホーム側から眺める者が居たとしたら、怪奇現象や都市伝説のようなものを思い起こすだろう。そして腰を抜かす程に驚いてしまうかもしれない。煌めく小さな光と共に、本来なら人が歩くべきでない所から何者かが迫ってくるのだから。


「う……裏道」


「チューリッヒ」


「ひー、日陰」


「ゲルニカ」


 軽い気持ちで始められたしりとりは長丁場に発展していた。両者一歩も譲らぬ大激戦。延々と繰り返しているにも関わらず、たったの一度も勝敗が決していないのだ。


「か、か、枯れ葉」


「秦野」


「の、の……ノイシュバンシュタイン……!」


「お? ようやく決着がついたか?」


「城! ノイシュバンシュタイン城!」


「おい待て、それはズルいだろ」


「そんな事ないもん! というかホラ、灯りが見えてきたよ! はい、しりとりは引き分けでお終いね!」


 丸一日閉じ込められたとは思えないトーンでヒナタが言う。これより2人の意識は外界へと向けられ、疑惑の判定はウヤムヤとなるのである。ささやかな消化不良だけ残して。


「さてと。ここも一応は灯りがついてんだな。ライトは消しておこうか」


「うん。そうだね」


 辺りを見回すと、数時間ぶりの薄闇に懐かしさを覚えた。出発地との違いがあるとすれば、それは一台の電車がホームで停車している事くらいだ。中は調べるまでもなく無人であり、側に寄っても何者かと遭遇するといった事態は起こらなかった。


「ここでも、人には会えなかったね」


「まぁ良いさ。さすがに地上へ行けば誰かしらに会えるだろうよ。それよりも早く行こう」


「そうだね。無事に出られますように!」


 幸先の良い事に、両側のドアが開け放たれた車両が見つかった。そこを中継地点にしてホームへと辿り着く。それからは向かったのは階段だ。まずは地下から脱出できるかどうか。最大の関心事である。


「なんだか、こっちの駅も被害は大きいみたいだね」


「そうだな。ついさっきも地震が起きたからな」


「すっごく揺れたもんね。ほんとびっくりしたよー」


 付近の荒れ模様は相当なものだった。天井や壁から剥がれ落ちたタイルが床を埋め尽くし、壁の至る所に大きな亀裂が走っている。避難経路を示すはずの誘導灯も、配線だけを支えに宙で揺れる。通行できるだけマシだが、深刻な被害状況を目にして焦りを覚えてしまう。ケイゴの手には自然と力が籠り、ヒナタの肩を強く掴む。大丈夫、大丈夫と言い聞かせる口調からは、先ほどまでの余裕は消えていた。


 やがて地下1階へと辿り着く。こちらも同様に薄暗く、遠くまで見渡す事はできない。ともかく記憶を頼りに最寄りの出口へと向かうが、行く手を大きな黒円に阻まれた。床が崩落しているのである。


「ケイゴ君、これ……」


「この道を通るのは危険だ。別の方へ回らなきゃな」


「穴を飛び越したりは、できないよね?」


「スタントマンでも無理だろ。もし飛べたとしても、着地した先が崩れそうだ」


「じゃあ、別の道にしようか」


 ポッカリと口を開けた穴は大きなもので、通路の端から端まで広がっていた。まだ無謀な手段に打って出る段階ではない。早々に見切りをつけ、もう一方の出口を目指す。


 再び地下2階へと降りる必要が無かった事は、足を痛めたヒナタにとって幸いだ。片足をかばいながらの移動というのは、中々に消耗する動作だ。早いうちに手当てをしてやりたいと思っても、湿布ひとつ無い現状では彼女の頑張りに頼らざるを得無い。


 こうして遠回りを余儀なくされた2人だが、それも悪い事ばかりではなかった。道すがらに小さな売店を見つけたのだ。これで何か手に入ればと喜び勇んで進む。そしていざ目の前にやってくると、にわかに湧き上がった希望も急速に萎んでしまう。


「何にも残ってないな」


「本当だ。パンも、飲み物も、お菓子さえ無いんだね」


 シャッターは大きな力で歪められたのか、めくれたようになっており、セキュリティ保持という役目を放棄していた。その向こうにあるのは空っぽの商品棚。食品や嗜好品だけでなく、マスクなどの衛生用品すら残されてはいない。スマホのライトで中を照らしてみるも、無いものは無い。


 ここでケイゴは訝しんだ。地震で物が散乱する事はあっても、忽然と消えてしまう事などあるのか、と。災害の発生は早朝5時過ぎ。営業時間前の品揃えだから満載では無かったにしても、前日に全てが完売していたとは考えにくい。売れ残りの商品がある程度残されている方が自然というものだ。


(もしかして、略奪された?)


 そう結論づけるしか無かった。推察を裏付けるように、シャッターにつけられた無数の傷は破損部分に集中している。何か鈍器で執拗に殴打した跡のようであり、偶発的なものには見えない。物証に乏しくとも人為的だと、確信めいたものを覚えた。


(だとしたら何故? よほど困窮していたのか)


 そこまで思い至ると、新たな不安が頭を過るようになる。外の状況は、考えていたよりも遥かに厳しいものなのではないかと。地上に脱出しさえすれば、自衛隊なりレスキュー隊が助けてくれるという期待は、淡い夢なのではないかと。単なる思い付きと言い切れ無い説得力が、次第に恐ろしい予測へと姿を変え、ジワリジワリと心を騒がせる。


 漠たる不安は、未知なるものへの恐怖心は、決して獲物を逃がさない。ひととき距離を置いたとしても、ほんの僅かな隙さえあれば牙を剥く。今もケイゴを虜にして意識を暗闇に引きずり込もうと、彼の体を静かに覆い始めるのだ。


(ここで気を揉んでも仕方が無い。ともかく地上に出る事を最優先に)


 念仏にすがるかのように、理知的な言葉を胸の内で繰り返す。そうする事でようやく、喚き散らしながら走りだそうとする衝動に耐える事ができた。無言のつばぜり合い、闇との対峙。その孤独な戦いに決着をつけたのは、彼自身の理性ではなく、場違いなまでに朗らかな声だった。


「ケイゴ君見て見て! 食べ物を見つけたよ、それも2つも!」


 いつの間にか狭い隙間に身を踊らせていたヒナタが、収穫物を手にして戻ってきたのだ。それは色こそ違えど、今となっては見慣れたパッケージのものだった。


「ブレッドメイト……?」


「そうだよ。こっちはミネストローネ味で、こっちのは新作の塩キャラメル味! まだ発売したばっかのヤツで、アタシも食べた事無かったんだよね!」


「そ、そうなんだ」


「あれ? あんまり嬉しそうじゃないね。もっと別な物が食べたかった?」


「いやいや、そんな事はないぞ。見つけてくれて助かったよ!」


 慌てながら相棒の成果を褒め称え、ミネストローネ味の箱を受け取り、ショルダーバッグに入れた。もう一方はヒナタが預かる事になる。よほど嬉しかったのか、しまう時の仕草は丁寧であった。思いがけず食料が見つかったのだから、ケイゴは先を急ごうとした。だがそれをヤンワリと引き止めたのはヒナタである。


「そろそろご飯にしない? お腹空いちゃった」


「ええと、今何時だっけ……」 


「午後の4時半だね。まだちょっと早いかな」


「食べちゃっても良いか。食べ物も見つかった訳だし」


「ほんと? やったね!」


 了承が得られたのが嬉しいのか、ヒナタはいそいそと開封済みの箱から1本取り出した。例によって半分に折り、2人で分け合った。ケイゴは受け取るなり一口で頬張る。味はよく分からない。甘めの塊が砕け、それから溶ける感覚を感じただけだ。何度も細かく齧る事で時間をかけるヒナタとは対照的だと言えた。そうして早めの晩餐は終わり、ようやく移動である。引き続きヒナタには肩を貸し、地上口に繋がる階段を目指して進む。それほど遠くはない。順調にいけば、脱出劇は間もなく終焉を迎えるだろう。


 それからは障害物に悩まされる事なく、切望した1階への階段へと辿り着く。踊り場のないタイプなので、視線を向けるだけで階上の様子を垣間見える事が出来るのだが。


「なぁ、どうして真っ暗なんだろう?」


「ほんとだ。実は勘違いをしてて、あそこが地下1階って事は無いよね?」


「そんなハズはないと思う。ともかく行ってみよう」


 もはや言葉は、推察さえも必要無い。階段を昇りきれば分かる事だ。ヒナタの足に気遣いつつ、一段一段進む。地上は目前であるはずなのに、迫るのは闇ばかり。もしかすると地盤沈下が起きて、建物自体が地中に埋まっているのだろうか。心に去来する不安を必死に脇へと追いやり、現状で出来る事を直向きに繰り返した。


 そして1階へ。周辺は物が散乱しており、足の踏み場に困る程だった。ガラス片や金属製の部品。有名タレントの顔が写る大きな広告。アパレルショップのものだろう夏物の服飾品。さながら空き巣にでも入られたような散らかり様だが、それよりも気がかりなのは外の状況だった。足元に気を配りつつ、改札を抜け、とうとう待ち望んだ地上へと帰って来た。そんな彼らを最初に出迎えたのは、これまでに幾度となく利用したバスロータリーだ。


 しかし、脱出の成功とも言える光景を目にしても、その心境は感慨深さからは程遠い。むしろ悪夢か何かだとしか思えず、自分の正気を疑いすらした。それほどに眼前に広がるものは変わり果てていたのである。


「なぁ、今って午後4時台だったよな?」


「うん。それは合ってる」


「何で星空が見えてんだろうな?」


「どうしてだろうね……」


 互いに短く言葉を交わすのが精一杯だった。それからしばらくは、足がタイルに貼り付きでもしたかのように一歩も動かず、延々と虚空を眺め続けた。太陽の消えてしまった空を。


 そこにあるべき太陽は無い。街灯の明かりだって無い。皮肉な事に2人が脱出した先も、地下と変わらぬ暗闇の世界だったのである。苦境から脱出したばかりの身に待ち受けていた現実は、あまりにも過酷すぎた。


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