Soirée

Scène 4 de l'acte 1

 地下鉄に三十分と少しの間揺られ、駅の階段をぐらりぐらりと這い上がり、ネオンが煌めく「西十番街」の入り口にようやくたどり着いた頃には、もう七時を回っていた。ホテルのスタッフに怪訝な目を向けられつつ、なんとか娼館「華屋」までの道順を聞き出していたルーシーは、手に持ったメモ用紙と街の門扉を幾度か見て比べ、周りの雑踏とともにその薄汚れた街へと流されていった。


「女性ひとりじゃ危ないですよ」というスタッフの言葉が、ルーシーの頭にふらりと浮かび上がってくる。男ばかりがひしめく街の中を、彼女はよろめき流されつつも前へ前へと足を踏み出し続ける。びかびかと垂れ下がった電飾や、赤や橙の提灯、ひらひらと揺れるオリガミのような飾り。くすんだ周りの服装と対照をなしていっそう華やかに見えるオブジェクトのひとつひとつに「ジパング」の趣を読み取りながら、けれど彼女の心や身体にはあいにく余裕がなかった。人混みの間をすり抜けたり、時にはうまく流されたり、けれどやっぱり押しやられたりしながら、彼女は手元を眼鏡の前まで持って来て、飲食店の看板の名前をメモ書きと照らし合わせはするものの、自分がほんとうに道順に来ているのかもようようわからなくなってくる。安っぽくぎらつくネオンの光とむせ返る人の匂い。彼女は次第に酔ったような心地になって来て、とうとう耐えられずに人ごみから抜け出すと、ほの暗い別の通りへと逃げ延びた。やっと深く息を吐きながら辺りを見回すが、どこであるかもわからない。先ほどの通りとは打って変わって両側に立ち並ぶ店はどこも落ち着いた雰囲気だ。人混みもまばら。だが、当の「華屋」は彼女が今しがた抜け出して来たあの通りの向こうにあると言うのだから困ったものだ。腕時計を確かめると、もう七時半を過ぎている。

 あの通りが空くのはいつ頃なのだろう……とぐったりとしていると、通りの向こうからからんからんと音が鳴って、ふっと顔を上げれば、奥の店から女性がひとり表へ出て来るところだった。手には何やらバスケットのようなものを抱え、そのまま路地の闇へと消えてしまう。ルーシーは

「あの!」

 と声を張り上げるが相手は気づかなかったらしい。ルーシーはじれったいような気持ちにかられて心を決めると、たったと走って女性の後を追った。

「すみません、あの、道を聞きたくて!」

 と消えた相手に追いすがるように路地へと入るが、人影はない。

「あの、あのぉ……」

 ルーシーが入ったのは女性が出て来たカフェの裏手の細道で、しんと静まり返った灰色の路地の間には、かすかに月がなぞった光の道があるだけ。そこに観光に来た女ひとりを迎え入れるような明かるさというものはひとつもなかった。

「す、すみません……私、お尋ねしたい、ことが……」

 ルーシーが声を低めて誰もいない通りに言葉を零した時、彼女の背中をふっと薄ら寒い風が撫でた。ひ、と小さく声をあげ、後ろを振り返る。けれどそこには何もなく、塗装の剥がれた壁の上で風に吹かれたトタンがきいきいと音を立てているだけだ。彼女はとうとう恐ろしくなってきて、鼓動に急き立てられた喉の奥から、むしろ存外大きく声が出た。

「あの!」

 すると、左手に閉まっている扉から物音がしてまもなく開き、先ほどの女性と思しきポニーテールのカフェ店員がひょっこりと顔を出した。

「はい?」

 きょとんと見開かれた両目に見つめられ、ルーシーは呆気にとられ、

「ああ、と……」

 と言い淀むが、相手の女性、もとい近寄れば少女といったほうが正しい年頃の店員は、ルーシーを少し警戒した様子でドアに寄り添ったままだ。

「道を、聞きたいんです……でもこの街、あんまり道を聞きやすい人が居なくって、それで……」

「あー」

 少女は得心した様子で、ちょっと目を泳がせた後、

「えっと、どちら……? どこまで行きたいの?」

 と聞いてくる。ルーシーは

「『華屋』というところまで……」

 とおずおずと言うが、「華屋」と聞くが早いか、少女は

「あなたもひとでなし?」

 と身を乗り出して聞いてくる。突然罵られて驚いたルーシーは、

「えっと……?」

 と言葉を止めるが、少女は

「ちょっと待ってて!」

 と言い残し、ドアの奥へと消えていってしまう。何事かわからないまま待っていたルーシーはその場に立ち尽くすほかなかったが、まもなく物音とともに少女が現れ、

「お姉さん、ちょっとタイミングが悪かったみたい! 華屋の人、さっきまでお店の中に居たんだけどね、ちょうどさっき出ていっちゃったみたいで……でも、今、声をかけてきたから、私、華屋まで送っていってあげる!」

 と、ドアを閉め、状況がいまいち飲み込めないルーシーを先導し、さっさと歩いていった。


「さっきはごめんなさい、勘違いしちゃったみたいで」

 ずんずん歩いていく少女に早足で追いつきながら、ルーシーは少女と言葉を交わしていた。

「あなた、外からおつかいに来ただけなのね。私、私てっきり……」

 と、少女が困ったようにはにかむので、ルーシーはすかさず、

「あの、『ひとでなし』って?」

 と尋ねる。少女はなんだか気まずそうな顔で口を開く。

「ううんと、説明しにくいんだけどね、ここに住んでる……その、外から通って来るひとじゃなくて、朝の間もずっとここにいるひとのこと。そういうひとたちのことをそんな風に呼ぶの。外から来る人が、私たちのことを……」

 少女の「私たち」という言葉に機敏に反応しながら、ガイドブックの「開放時間」の記述を思い出し、ルーシーは心の中でひとり納得する。この街に住む人たちが街の門を開け閉めして、人の出入りを管理しているというわけだ。

「この街を一人でうろついてる女の人って、大体はここに住んでる、その……『ひとでなし』なことが多いから、私、勘違いしちゃった」

 少女は肩をすくめ、ちょっと悲しそうな顔をしながら、「こっちが近道」と人のまばらな道を選んでルーシーを連れていく。

「ここに住んでいる人たちは、差別されているような感じ、なんですか?」

 慎重にそう尋ねたルーシーに、少女は、まあ、そうかもねと困ったように笑う。

「あ、華屋はね、この塀の中が全部そうなんだけど」

 少女は踵を上げて目の前の生垣を少しばかり覗き込んでから左手を指し、

「表に回りましょうか」

 とルーシーに説明する。そうして彼女に付いていくと、あの人酔いした大通りに突き当たった。少女はルーシーの方を時折振り返りつつも器用に人波を避けていき、難なく「華屋」の看板が掲げられた戸口をくぐると、中に向かって声を掛ける。どうやら娼館に顔が効くようだ。

「ねえ、あんたたちに女のお客さんみたいよ。誰かいない?」

 そうすると、まもなく中から返事が聞こえ、廊下の奥から男がひとり、歩いて来る。黒いコートを羽織っている。年の頃は「青年」という感じだろうか。

「この人、あんたたちに用があるんだって!」

 とルーシーのことを指した少女に、男は明るい色の髪をかき上げながら

「はあ」

 とかぼんやりした顔で返すので、ルーシーは不安になり少女の方を見る、と、少女はもう戸口の方へと向かっていた。

「じゃあ、私はここで帰るわね。何かあったらまた、カフェまで来てくれたらいいから!」

 と言い残して、愛想よく手を振り少女は去っていく。ルーシーから「ありがとう」を受け取るのもそこそこに戸口を出ていく少女の後ろ姿を見送ってから、今度は出てきた男に向き直る。男はなんだか疲れたような顔で、

「何の御用?」

 と鬱陶しそうな顔で聞くので、ルーシーは少しばかりまごついた後、電話口でのペンドルトンとの会話を思い起こす。そうだ、彼は言っていた。ただ、こう言えばいいと。

「私、セイラムから来たんです」

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