Scène 3 de l'acte 1

 ホテルの部屋に帰って来たルーシーは、頭の中を整理しながらベッドに腰掛け、そのまま仰向けに倒れこんだ。天井に釣り下がったランプが目に入る。眼鏡に手をやり、外して横に置いた。

 ペンドルトンの同僚、受付の女性、そして、電話口での会話……。ルーシーは顔を覆い、ため息をつく。帝都に来て早々、被った情報量が多すぎる。大学でのあの不穏な対応はなんだ? 確かに、「ペンドルトンが帝都には出禁である」という情報は持って来ていたし、それに関してどういう対応を受けるかは覚悟もしていたはずだった。けれど。ルーシーは研究室の惨状を思い出す。受付の女性も部屋のあの荒れ具合を気にも留めない様子だったし、あの大学、もといペンドルトンの周辺には、掘り返してはならない秘密がある。そして、その秘密を共有する彼らには暗黙の了解がある。私には知らされていない「事件」についての秘密を掘り返さないという、暗黙の了解が。

 ルーシーはそこでひょこりと身体を起こすと、ショルダーバッグの中にまとめて突っ込んできた手紙の束を取り出した。要りそうもないのを全て横に退けたのち、差出人の書かれていないあの封筒に行き当たる。ペンドルトンがルーシーに「間違いなく」持って帰ってくるようにと言った手紙は、実際にはこの一通のみを指すのではなかろうか。ルーシーはそう考えた。どれもこれも持ち去られたらしい、おつかいリスト上の蔵書たちを差し置いて、ペンドルトンが絶対に捨て置けない「手紙」。それは、論文執筆の礼状でも勉強会の誘いの手紙でもなく、今ルーシーの手の中にあるこの一通に違いない。そう確信したとたん、なにやらどぎまぎしてきて、ルーシーは糊付けされた封筒の蓋に手をかけ──やめた。それとわかる危険にわざわざ飛び込むことはない。ペンドルトンのことだ。私のところに運んでくるトラブルのストックには事欠かない……彼女はそう思ってその手紙を他のものと分け、慎重にショルダーバッグにしまいこんだ。さてと、と時計を見ると、もう夕方の六時だった。

 ペンドルトンの言うことを素直に聞けば、ルーシーは今日中に「西十番街」という街にある「華屋」というフラワーショップに行かねばならない、ということになるらしい。「行けばわかる」なんて、よくもまあ無茶苦茶なことを言ったものだ。ルーシーは帝都の地図を取り出して、自分のいるホテルの印を見つけ、紙面を左へ左へと辿っていき、帝都の区画の西端に「西十番街」の文字を見つける。付近まで地下鉄が通っているらしい。三十分くらいはまたメトロに揺られるような塩梅だろうか。今度は鞄の奥にしまってあった観光ガイドを取り出して「西十番街」の記述を探してみる。しかし、とりわけ観光地としての記述はない。観光資源はない寂れた街なのかもしれない。それでもさらにページをめくり続けると、やっと帝都の西方の地域についての記述がある。そこにやっと「西十番街」の文字を見つけ、読んでみる。そこにはこう書いてあった。


 帝都でも治安の悪い一角。小規模ながら自治区。旅行者にはお勧めできない。なるべく近づかないこと。区画の解放時間は季節によって変化するが、19:00〜翌朝5:00頃。


 読み終えた瞬間、ルーシーは片眉を吊り上げ、ペンドルトンは自分をなんという場所に行かせようとしているのだ、と声には出さずに憤慨する。こうなると、「華屋」が「フラワーショップ」であるかどうかも怪しくなってくるし、そもそも「区画の解放」とは一体なんぞや?

 そこまで考えてから、どこかに収まっていたらしい疲れと空腹がぐっと意識に上って来た。ルーシーはチェックインのときに説明されたホテル一階のダイニングのことを思い出し、地図を持ったまま貴重品一式を携えて部屋を出た。


 一階カウンターに着くと、ホテルの女性スタッフがにこやかな顔つきでルーシーから部屋のキーを受け取ろうとする。ルーシーはそこで「あの」と、女性の目に向かって話しかける。

「私、これから西十番街にある『華屋』というところに行かなければならないのですが、ええと、その……何かご存知ありませんか……?」

 なんと質問をすればいいのかわからなくなり、ルーシーの言葉の語尾はなにやら曖昧に濁される。

「華屋」

 カウンターの女性は店名を繰り返し、それから先程からの笑顔を崩して困惑し、

「『華屋』っていいますと」

 視線を泳がせてあたりに他の客やスタッフがいないのを確かめ、居心地悪そうにもう一度口を開く。

「娼館の、あの……?」

 そのまま気まずそうに目線を送ってくる女性を前にしてルーシーはいつの間にかぽかんと口を開け、

「『娼館』?」

 とまともに聞き返していた。


***


 時は少々遡る。ルーシーが帝都中央駅に降り立ち、ホテルへの道中モデルTに揺られていた、ちょうどあの頃だ。

 石畳に照り返る硬質な街灯の色を踏みながら、ひとりの男が人気のなくなった道を歩いている。彼は、その「掃き溜め」のようなごみごみとした区画に暮らす非人であって、誰もいないその通りをひとりぼんやりとうろついているところだった。その、たった一人きりの冷たい「夜」の中で彼は、かあん、かあん、と何かを叩くような音の響きを見つけた。どこからか響いている、小さく、しかし一定な音のシークエンス。彼はあたりを見回し、眉根をひそめて、無意識に前髪に触れてそれを後ろに撫で付け、無人の通りを歩き回る。と、彼が立ち止まった地面が、びりりと揺れているのを覚えた。ふと目を下げると、彼が立った場所は石畳に埋め込まれたマンホールである。そのマンホールが、例のかあん、かあんという音の響きと共に、彼の足の裏を痺れさせているのだ。男はマンホールを避け、かあん、かあんと尚も響き続けるマンホールをしばらく見つめていたが、耐えぬ音と音の間で彼はマンホールの凹みについに手をかける。そして、雨水でじわりと錆びた縁がざりり、と不快な音を立てるのを聴きながら、ついにその重い蓋を無理に取り開けた。

「あっ」

 マンホールの蓋を横に投げ捨てた彼の耳に届いた声の主が、穴の中から彼のことを見つめていた。男は目を細め、マンホールの底を覗き込む、と、頼りない月の光の中にとうとうその姿を認めた。そこに居たのは、彼の予想を裏切って、小さく無害そうで、なんとも頼りない生物だった。丸く見開かれた大きな目と、切りそろえられたボブカット、身長はせいぜい一メートルくらい。

「んお」

 となんとも言えない声を出し、クラゲみたいな風貌の少女が、どこで拾ったのか鉄パイプのようなものを彼の方に突き出している。それでマンホールの蓋を叩いていたらしい。男はぽかんと口を開け、少女としばし見つめあっていたが、それから小さく、

「この街、迷子預かり所あったっけな」

 と独り言のように呟いた。

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