Scène 2 de l'acte 1
地下鉄から這い上がると、濁った陽光がルーシーの眼鏡に反射した。あたりをぐるりと見渡すと、彼女が今しがた出てきた駅は大学の最寄りも最寄りだったらしく、通りを跨いだ向こう側に大学の名が刻まれた門扉が開いているのがわかる。彼女は注意深く車の流れが途切れるのを見計らい、さっと走って大学の敷地内へと飛び込んだ。
案内所でペンドルトンの研究室はどこかと尋ねると、応対した男性は
「ペンドルトン……ペンドルトンね……。失礼、ファーストネームもお伺いしても?」
と言いながら、名簿のようなものを調べている。
「ドクトゥス、ドクトゥス・ペンドルトンです」
彼女がペンドルトンのフルネームをはっきりと口にした時、
「ペンドルトンだって?」
と、彼女の背後から声が上がった。ルーシーが振り返ると、ブリトーを手にした壮年の男性がスーツ姿で立ち尽くし、彼女のことを穴のあくほど見つめている。
「はい。ドクトゥス・ペンドルトン……ご存知ですか?」
「ご存知も何も……」
スーツの男はブリトーを持った手でルーシーのことを招き寄せ、一緒に歩くよう促したので、彼女は案内所のほうに一礼してから男の横に並んで歩き出した。
「同僚さ。いや、同僚だった。短い間だったがね」
男は手に持ったままのブリトーを振り回しながら喋っている。
「ところで君は、ペンドルトンとは、その、何なんだね?」
男はうまく言葉が出なかったという様子でじれったそうにそう言ってルーシーの顔を覗き込むので、ルーシーは
「同僚で……先生は恩師なんです。ろくでもない、恩師ですけどね」
彼女が付け加えた一言に男は一瞬きょとんと固まったが、すぐさま笑って
「そうか、お弟子さんか。随分と仲がいいようだ……ところで、ここへは何をしに来たんだね……?」
そう尋ねた男の声が不意に緊張の色合いを帯びたのにルーシーは気づき、戸惑いながらも、
「研究室の整理を頼まれました……あの、差し支えなければ部屋までご案内いただけませんか?」
「もちろん、そのつもりで、こうして君と歩いとる。だがね、整理とは。掃除かな」
「いえ、『置いてきたものを取ってきてほしい』と言われて……」
彼女の言葉が終わるよりも前に男は立ち止まった。片手はだらんと下りたままブリトーを握りしめている。
「例の『事件』のかね?」
「……『事件』?」
ルーシーが彼の言葉をそのままそっくり繰り返すと、男ははっとして気まずそうに口をつぐんだ。それからまた不意に妙な調子で喋り出し
「いや、違うんだ。そう、大したことじゃない。こちらの話さ。うん、なに、彼の研究室まではすぐだよ。ほんとうに、すぐ、すぐ着くさ」
と、まくしたてると、彼女を連れて早足で歩き始めた。
「すみません、どういうことですか? 『事件』っていうのは……」
彼女が戸惑いながらそう問いかけると、男は足を止めないまま、彼女に気まずそうな視線をやって、
「知らないのならあまり首を突っ込まないほうがいい。目当てのものが見つかったら早々にここを後にすることだ。面倒ごとに巻き込まれるかもしれない。それに」
と、そこで男は足を止め、
「ほら、ここの棟だよ」
と目の前の石壁の建物を指をさした。
「下の受付で鍵をもらうといい。丁寧に案内してくれるはずさ。うん、心配ない」
と言って男が足早に去ろうとするのを止め、ルーシーは
「『それに』……?」
と、言葉の続きを促す。男は足を止めて彼女に向き直り、眉根を詰めて鼻からふうっと息を吐くと、
「『それに』……君の目当てのものは、もうここにはないかもしれないよ」
男はそれから、じゃあね、と言って、話している間はずっと口をつけなかったブリトーを振り振り、歩み去って行った。
ルーシーが建物を入ってすぐのカウンターでガラス戸を叩くと、中に居た中年女性が愛想よく返事をした。
「なんでしょう」
「こちらにドクトゥス・ペンドルトンの研究室が残っていると聞いて……。私、先生の教え子なんですが……」
と、そこまで言った時、中年女性の後ろの職員のうち、何人かがルーシーのことを振り返った。中年女性はルーシーが彼らの様子に思わず目を丸くしたのには、気づかなかったような調子で
「ペンドルトン先生のお部屋、確かに残っております。すぐに鍵をお出ししますわ」
と返すので、ルーシーは愛想よく微笑んで鍵が出てくるのを待った。407と書かれたキーホルダーの付いた鍵を差し出し、女性はルーシーに向かって
「こちらは五時まで開いております。それまでに鍵をご返却くださいね」
と言うと、持ち場に戻ってしまった。ルーシーは鍵を受け取って建物の奥に進み、エレベーターに乗り込んだが、ドアが閉まった後、受付の女性がカウンターに身を乗り出してルーシーが去ったのをわざわざ確認したことには気づかなかった。女性は他の事務員と目配せすると、受話器を取り、どこかに電話をかけ始めた。出た相手と形式的な挨拶を交わした後、もう一度閉まったエレベーターを確認してから
「ペンドルトン氏の元生徒と言う人が……」
と声を低めて話した。
一方407研究室に着いたルーシーは、ドアにはめ込まれた曇りガラスが埃まみれになっているのを見て口を尖らせつつ、手早く鍵を開けて中に入った。ドアは随分長いこと開けられていなかったらしく、ドア枠から剥がれるようにしてぎこちなく開き、きゅう、となんだか情けない音を立てた。それに続いて、今しがた開けたばかりのドアの裏側で何かがどさどさと落ちる音が聞こえ、ルーシーは思わず苦い顔をして唇を鳴らす。覚悟して慎重に歩を進めると、床の上に積もった埃がぶわりと舞い上がり、彼女は咳き込んだ。散々だなあ、と心の中で悪態を吐きながら、ブラインドが閉められた薄暗い部屋で、ルーシーはすぐさま壁のスイッチを押して電気を点けた。のだが、電気が着いた瞬間、彼女は思わず声を上げることになる。
薄暗い研究室の中では、あらゆる棚やボックスがひっくり返され、強盗にでもあったかのように部屋中が荒らされていたのだ。机の上、床を問わず散らばった本や書類の上に埃が積もり、まるで雪深い山岳地帯のような様相を呈している。ペンドルトンの管理下にあったと思しき実験器具類もそのほとんどが持ち出されているらしく、荒らされた棚の中にいくつかのガラス器具類が取り残されているような状況だ。口元をハンカチで覆って部屋の中をぐるぐると歩き回りながら、ルーシーはため息をついてしまった。なんてことだろう。けれど彼女は心が折れ切らないうちにペンドルトンから渡された「おつかいメモ」を参照し、そこにリストアップされた医学の論文集や専門書、辞書類を探し始める。しかし、なんとまあ悲惨なことにどれもこれも揃いも揃って見つからない。彼女は口をへの字にしてう〜んと唸ってしまった。明日もここに来ることになるだろうか、と半ば絶望的な気持ちになりつつも、彼女はリストの最後まで目を通し、そこに「重要」の但し書きを見つけた。リストの最下部にはこう書いてある。「研究室に届いた手紙(※重要! これだけは何としても持ち帰ること!)」見慣れたペンドルトンの字が、ぐりぐりと「手紙」に下線を引きつう彼女に注意を呼びかけているのだった。ルーシーは手紙を探してデスクの上を当たってみるが、封書の類は全て持ち出されているらしく、さっぱり見当たらない。どこかに教授陣向けの共同ポストでもあるのだろうか、と戸口を振り返り、開けっぱなしのドアにドアポストが口を開けているのに気づく。なるべく埃を立てないように注意しながら入り口の方へ戻ると、ドアに手をかけ、閉める。すると、部屋に入った時にになだれ落ちたのだろう、手紙類がばさばさと床に広がっているのだった。
「これだ……」
彼女は安堵からつい声を漏らし、スカートを膝の裏に折り込んでしゃがむと、なだれ落ちていた手紙をひとつひとつ拾い上げていった。勉強会の誘い、学生が提出したレポート、ペンドルトンが寄稿したと思しき論文集についての令状、などなど、「あの人の興味のなさそうなものばかりだな」とルーシーは思わずにやけてしまう。ペンドルトンは、こんなものを取って来させるために、自分を遥か異国の地に寄越したのだろうか? と疑問が湧き上がった頃、彼女の目は次の手紙に移っていた。白い封筒に貼られた万博の記念切手。万年筆で書かれたと思しき宛名はペンドルトンの名を筆記体で器用に綴っている。ルーシーの手はそのまま封筒を裏返して差出人を確認していた、が、そこには何も書かれていない。瞬きをして手紙を電灯に透かしてみるが、封筒は案外分厚く、中身はわかりそうもなかった。
机の上に手紙類を広げて要りそうなものとそうでないものをより分けていき、先ほどの差出人不明の手紙に手をかけようとした、その時、彼女の背後からけたたましい呼び出し音が鳴った。彼女が肩をびくりと跳ねさせ、何事かと振り返ると、棚の中に押し込まれていた黒電話がガラス戸の向こうからじりじりとやかましい音を立てて彼女を呼んでいるのだった。
彼女は思わず足をにじらせ、驚いたまま立ちすくんでいたが、呼び出し音は止まらない。彼女は泣きそうな気持ちになりながら、「事務の人からの電話かもしれない」と思い至って気を取り直すと、ガラス戸を滑らせて、受話器を掴み取り、耳に当てた。
「はい?」
と彼女が声を出すが、向こうからは声がしない。ただ、風の吹くような音が、ひゅう、ひゅうと向こう側から聞こえていて、時折何かノイズが混じる。
「あの……」
ルーシーは相手の返答を促すが、向こうは何も返して来ない。気味が悪くなってきた彼女は首を傾げ、受話器を置こうとしかけたが、その時、
「切らないでくれよ」
とぼそりとした声が彼女の耳に滑り込み、彼女はびっくりして受話器を落としそうになった、が、持ち直す。
「あの」
「ケインズくん」
そう呼ばれた瞬間、彼女ははっとして、それと同時に素っ頓狂な声が出てしまう。
「ドク! もう、驚かさないでくださいよ!」
受話器の向こう側から聞こえてくるのは、聞き慣れたペンドルトンの声だった。
「なんですぐ返事しないんですか! 変な電話かと思っちゃったじゃないですか! もう! いい加減こういうのはやめてください。私、出るとこ出たっていいんですから!」
「ケインズくん。どうやら首尾よく行っているようだねえ。手紙は見つかったかい?」
彼はルーシーの喚き声など聞こえないような調子で喋り続け、彼女がむっとしながら
「ええ。見つかりました。でもその、この中にも要るものと要らないものがあるんじゃ……」
と言うのを遮るようにして、
「よろしい、手紙があればいいんだ。間違いなく持ち帰ってくれたまえ。それと、もうひとつ、用事をこなして貰いたいんだ」
と、なおも強引に話す。
「まだあるんですかぁ?」
とルーシーが喚くと、彼は「西十番街」と短く声を出した。
「そこにある『華屋』という店に言って欲しい。行けばわかる」
「『ハナヤ』? フラワーショップですか?」
「まあ、そんなところだねえ。今日中に行って来て欲しい」
と、苦笑したような声が聞こえてきて、ルーシーは片眉を吊り上げた。
「今日中? 私、もうくたくたなんですけど……それにドク、私、わからないことだらけで……『事件』って一体なんですか? あなた、この帝都で一体……」
「ルーシー」
ペンドルトンの声が掠れて冷淡にそう響き、ルーシーは思わず口を閉じた。
「華屋に行ってきて欲しい。用件は今説明できない。だが、中の連中にはこう言えば伝わるはずだ」
受話器の向こうからは、はっきりとしたペンドルトンの声の後ろで、相変わらず何か空気の流れる音がする。彼女はそのとき、不意に自分が今、埃だらけの狭い研究室にひとりきりなのに気づき、靴の中で足の指をぎゅっと握りしめながら、妙な不安感に襲われた。急に、彼女の手に握られた受話器が数キロ重たくなったかのようだった。ペンドルトンの声はこう言った。
「ただ、こう伝えてくれ。『セイラムから来た』と」
彼女は彼の声をじっと耳で聞き、さらには彼がこう続けるのも聞いていた。
「もしかしたら、予期せぬ出会いがあるかもしれないよ」
彼はそれから微かに笑うと、我に返ったルーシーが
「ちょっと!」
と止めるのも聞かず、一方的に電話を切ってしまった。それからルーシーが煮え切らない気持ちで受話器を睨みつけている時、またしても背後からガンガン! とやかましい音がして、彼女はぎょっとしながら振り向いた。すると、ドアの曇りガラスに人影が映っているのだった。彼女が慌ててドアを開けると、事務員の中年女性が申し訳なさそうな顔で
「すみません、もう五時になりますので……」
とルーシーの顔を覗き込む。彼女は手紙をひとまとめにして鞄に突っ込むと、女性に礼を言って、そそくさと大学を後にしたのだった。
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