Acte 1

Matinée

Scène 1 de l'acte 1

 駅前を行く古めかしいモデルTと、その合間を駆けて行く馬車たちの騒がしい交差。考古学者ルーシー・ケインズは、やけに格式張って旧時代的な街の装いに目を丸くしながら、革張りのトランクと愛用のショルダーバッグと共に帝都中央駅に降り立った。排気ガスの黒い煙が彼女の鼻にかかった眼鏡の前を通り、彼女は小さく咳き込む。太平洋を越えてとうとうやって来た東洋の「帝都」は、彼女の母国アメリカの一時代前の景色を輸入して、そっくりそのまま繰り返しているかのようだった。街並みに目を奪われていたルーシーははっと我に帰り、そこでコートのポケットから一枚のメモを取り出した。彼女の滞在するホテルの住所が書かれた、いわば彼女の命綱だ。彼女はメモに書かれた異国の地名を口の中で繰り返し、それから意を決してタクシーを止めた。


 揺れる車窓から街並みを眺めていると、レンガ積みの西洋風な建築物に、徐々に旅行記で見たような日本風の家屋が混ざり始める。西洋文明と日本文化が切り貼りされたパッチワークのような景色は、彼女の目にやや馴染みがあるものだったので、彼女はそこで知り合いの顔をいくつか思い浮かべた。彼女の目に見えるのは、運転手の後頭部と、なおも左右を流れ続ける街の景色。彼女はそこで座席に背中を預け、少し緊張を解いて車の天井を仰いだ。ここに来ることになった経緯が彼女の頭の中でぐるりと演技を始める。



「ケインズくん、来週から休暇らしいじゃないか」

 彼女と同じ大学で働く医学者ドクトゥス・ペンドルトンは、いつもの飄々とした笑顔でランチ中の彼女に話しかけた。夏休み中の学内は人影もまばらで、医学者は彼女のことを探してわざわざ食堂までやって来たようだった。白衣を纏い独特のゆったりした物腰で近づいて来る医学者に、野菜スープを口に運ぶスプーンを一旦止めたルーシーは、

「……気のせいですよ」

 と反抗を試みるが

「休暇らしいじゃないか」

 と、ペンドルトンは片手に持ったコーヒーのマグカップと共に彼女の向かいに腰掛けてしまう。彼の食えない微笑みにちらりと一瞥をやったルーシーは「相手にしてはいけない」という確信のもと、再び野菜スープにとりかかるが、うつむいた彼女の視界の中に細身の封筒が滑り込んでくる。

「チケットは用意しておいた」

 口の中で野菜を噛み込み、ごくりと飲み干しながら、「頼まれると断れない人間」であるルーシーは、彼に何か自分の身を守るための言葉を返そうとする、が、彼はさらにひとりで続けた。

「君、夏の間は働き詰めだったろう? もう秋になってしまったが、ここに来て取れたせっかくの長期休暇だ。遠い海の向こうを散策するのも一興かと思ってね」

「『海の向こう』ですか……?」

 と、ルーシーは言葉を返してしまう。好奇心が先立つという彼女の悪い癖だ。ペンドルトンは彼女の心持ちが前のめりになった瞬間、すかさず

「そう」

 と彼女の言葉を受け取り、彼女が自分の失態に気づいた頃には封筒から航空機のチケットを取り出して、笑った。

「ジパングだよ」



 過去を巡っていた彼女の頭は、ぐらぐらと揺れるモデルTの後部座席へと戻って来て、その瞳は再び道を行くキモノの人々やノスタルジックな洋館の外壁の上を滑り出した。


 ペンドルトンはこう言った。

「僕が前にあちらの大学に居たことは知ってるだろう? まあ、短い期間だったが、僕は『帝都』の大学に籍を置いていて、未だあそこに僕の研究室は残っている。それでね、あそこに置いて来てしまったものを君に取って来て欲しいんだ。簡単だろう? ちょっとしたおつかいさ」

 彼はそう言って、ルーシーに「おつかいリスト」を手渡した。

「自分で行けばいいじゃないですか!」

 というごもっともなルーシーの言葉に、ペンドルトンはコメディアンのようなわざとらしい風情で肩をすくめ、

「僕、入れないんだよ。帝都に」

 と返すので、ルーシーの口はぽかんと開いたまま固まってしまった。

「ま、そういうわけだから」

 とペンドルトンは彼女にチケットを押し付け、驚くほどスマートにその場を後にした。後日、彼女はペンドルトンを付け回し、チケットを返そうと三度は試みたが、医学者の巧妙な立ち回りによってチケットは毎度呪いの人形のごとく彼女の元に戻って来るのだった。


 おつかいが済めば、あとは好きにしたらいい。宿泊代はもちろん僕が出すから、君は異国の地でゆったり羽を伸ばすといいさ! と言ったペンドルトンの顔が、今もありありと彼女の目に浮かび、ルーシーはその食えない物腰や表情が憎らしくて堪らなかった。そもそもペンドルトンが「帝都に入れない」ということに彼女は大いに引っかかったのだが、常にトラブルを運んでくるペンドルトンのトリックスターとしての性質を彼女はもはや「信頼」していた。彼のせいで彼女が今までどれだけの面倒に巻き込まれて来たか……そういったことは、ここで語り尽くせそうもない。


 ところで、ペンドルトンの言った通り、夏季休暇をまともに取ることのできなかった彼女はあれよあれよという間に秋の始業を迎えてしまった。それでもなんとか始業後に二週間の休暇をもぎとった彼女は、心踊る旅の計画を立てていたのだ。愛車のニュービートルを転がして、ルート66の壮大な景色の中をひたすらに西へ、西へと駆ける。抜けるような青空が、クリーム色の車体にかすかに写り込み、磨かれた車体が陽光を跳ね返して輝く──彼女のそういった夢想は、かの医学者によって木っ端微塵に打ち砕かれてしまい、少なくとも彼女の「身体」は今現在、ユーラシア大陸の東端、過去の凝り固まりのような異邦にいるのだった。


 タクシーが止まり、ルーシーは支払いを済ませてバッグ二つと共に通りへ出ると、メモをもう一度確認し、西洋風の小さなホテル「べいす」へと入っていった。


 彼女が通されたのは三階の廊下の奥で、こじんまりとしているが居心地の良さそうなワンルームだった。ずっしりと大きなベッドがあり、家具は一式マホガニー材で統一されていて、古いが清潔感のあるユニットバスもついている。ルーシーはふたつのバッグを下ろして息を吐き、ベッドの上に腰掛けて足を投げ出す。ホテルの従業員に手渡された無料サービスの新聞にちらりと目をやるがそれを書き物机の上に放ってしまい、ベッドの上に体を投げ出した。そのまま寝たいような気分だったが、彼女は机の上の置き時計が午後二時を指しているのを見つけてしまい、大学の事務が開いているのは精々夕方ごろまでだろうなということにも気づいてしまった。彼女は寝返りを打ってのろのろとショルダーバッグの中から帝都の地下鉄路線図を取り出し、最寄りの駅から大学前までの運賃と乗車時間を調べる。ぐったりとベッドの上に腹ばいになりながらも彼女の頭はきちんと動いていて、二十分あれば目的地に辿り着けるだろうという計算結果がまもなく彼女の頭の中ではじき出される。帝都での滞在期間は1週間。別に急ぐこともない、が……。彼女はそこで、早々と用事を済ませせ、残りの六日間を伸び伸びと観光や食事に費やす優雅な時間のことを考えた。彼女はますます深いため息をつくと、必要最低限のものだけを持って部屋を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る