指の記憶
小学校の低学年の頃、車のシガーライターで左手の親指を焼いたことがある。当時の私は電熱などという言葉は知らなかったし、両親ともタバコを吸わないのでその使用法を知らなかったのだ。じゅぅと音を立てて親指の指紋が焼けたとき、私は驚きで痛みを忘れていた。私の行動に気づいた母親が慌ててシガーライターを取り上げた時には、親指の指紋はすっかり変わってしまっていた。
車内でひとしきり怒られた後家に帰ると、私は買ってきたビーズを机の上に広げた。熱を持った親指の先で、きれいに洗ったインスタントコーヒーのビンにビーズをくっつけていく。ビーズでおめでとうと書いたビンにたくさんのお菓子を詰めて、私はいそいそと兄の部屋に向かった。その日は兄の誕生日だった。五歳年の離れた兄は私の顔を見るとひどくいやそうな顔をした。彼はビンの中身だけを机の上にだして、空になったビンを苛立たしげに私に押し付けた。私は親指の先が急に痛くなったような気になって、大声を上げて泣いた。
兄はひどい男だと思う。彼は夏休みの宿題が終わらない苛立ちから私が初めて書いた交通安全ポスターを踏みつけたことがある。一緒に学校へ行こうと思ったらついてくるなと怒鳴られたし、三十九度の熱を出したときは「うつすなよ」と言ってそそくさと離れて行ってしまった。そのくせスキーの滑り方を教えてくれたり、川で遊ぶ私のそばで心配そうにこちらを見つめていたりするものだから、私は彼を嫌えずにいる。高校受験の時、母親から兄が「あいつなら大丈夫だろ」と言っていたことを知らされたときはどうしようもなく恥ずかしくなった。
私の兄との会話は、もっぱら「飯」「風呂」「母さんは?」の三つだ。兄が大学に入って家を出てからはそんな会話すらなくなって、一年に一度言葉を交わすかどうかもわからないほど疎遠になった。彼が入社した会社を一年足らずで辞めたと知ったのも、私の住む名古屋の方に引っ越してきたと知ったのもその数か月後に母から知らされたからだった。
私と兄が久々に会うことになったのは、母方の祖父の誕生日のことだった。顔を合わせても特に会話はせず、兄は助手席に、私は後部座席に乗り込んだ。私は車に流れる兄好みの音楽を聞き流しながら窓の外を眺めていた。特に気まずくはない沈黙が数分続いてから、ふいに兄が口を開いた。
「これ、なに」
彼が手にしたのはあのシガーライターだった。私はつい左の親指を見て、あのビンを思い出した。今更ながら少しだけ腹を立てていると、母のあわてた声が思考を遮った。
「ちょっと!あかんに!」
「は?」
シガーライターが、兄の左の親指の数ミリ前で止まっていた。前例を覚えていたからなのかはわからないが、今度こそ母はわが子の暴挙を止めることに成功したのである。
「そんなことしたらやけどするでしょ」
母にそこまで言われて、兄はようやく納得したようだった。シガーライターを元の場所に戻し、何事もなかったよう背もたれに寄り掛かる。私は兄の茶色い頭を眺めて、前の二人に気づかれないよう小さく笑みをこぼした。
エッセイ @rui_cat
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