第9話

 ちん、と軽い音がして理人は顔を上げた。夕飯の下準備をしていたら、もうクッキーが焼きあがる時間になったようだ。雪比奈は散髪を済ませ、今は二階で和葉にコーディネートをされているらしい。随分と時間がかかっているところを見ると、大方着せ替え人形にされているのだろう。雪比奈はきちんとした格好をすればモデルになってもおかしくないと理人は思っている。そんな素材を前にファッションにうるさい和葉が簡単に妥協するはずがない。

 オーブンからプレートを取り出し、コンロの上に乗せる。焼き加減は十分。形も整っている。整っているといってもただの丸型だが、味が良ければ問題ない。端の一つを取ってぽいと口に放り込む。サクサクとした食感と共に生姜の味がしっかりと口の中に広がった。通常のジンジャークッキーの分量の倍の生姜が入ったこの味が理人流である。

「いいにおいがするな…」

 聞こえたのは雪比奈の声。理人は入口の方に目をやって、ふつりと黙り込んだ。

「君の家族は少々パワフルすぎる。僕は随分と疲れたよ」

「……誰?」

 思わずそう尋ねた。長かった、というよりは伸ばしっぱなしにされていた雪比奈の髪はぎりぎりうなじが見えない程度に切りそろえられていた。目の下に住み着いた隈はコンシーラーか何かで隠されているらしい。随分とすっきりした顔立ちになっている。

「君は何を言っているんだい?」

 雪比奈が訝しそうに首を傾ける。彼が着ているシャツやベスト、ジーンズは理人の身体には合わなくなってしまったものばかりだ。身長はさして変わらないが、不健康に細い雪比奈には十分なサイズだったらしい。

「人って格好だけでこんなに変わるんだな。今のお前なら雑誌の表紙とかになってても違和感ねぇわ」

「大げさすぎやしないかい?そういう類の人間は日々相応の努力をしているものだよ。しかし、こうも視界が広いと落ち着かないな。視えなくていいものまで視えてくる」

 理人は大皿をだし、そこに丸いクッキーを並べていく。先ほどから雪比奈が不機嫌そうなのは長い間和葉や母に弄ばれたからだけではないだろう。

「雪比奈、今ここに竹内柳都はいるのか?」

 雪比奈がん、と口を開けるのでそこにクッキーを一つねじ込んでやる。彼はそれをゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから首を振った。

「いいや。今日は家族の許にいるようだ」

「……そうか」

 決断を下す前に彼と一度話をしておきたかった。だけどそれは難しいようだ。

 いや、違う。理人がそれを避けていたのだ。本当に望むならば一昨日の部室で雪比奈に仲介を頼むことだってできたし、昨日のうちに彼を探しておくことだってできた。それをしなかったのは理人に勇気がなかったからだ。

「このクッキーは旨いな」

 雪比奈はまだ熱いはずのプレートから素手でクッキーを掴み取る。サクサクという雪比奈の咀嚼音だけがその場を支配した。本当に気に入ったのだろう、五枚目を食べ終えたところで雪比奈が冷蔵庫に張り付けられたメモ帳を指さした。

「これ、使っていいかい?」

「ん?あぁ」

 クッキーをすべて大皿に移し終えてからプレートを流し台に移動させる。雪比奈はメモを一枚破り、付属の小さなペンで何かをすらすらと書きつけた。

「……本当は言いたくなかったのだが、約束を破ったと知れば君は怒るだろうからな」

 メモを二回丁寧に折った雪比奈はそれを理人の尻ポケットに差し込んだ。真っ直ぐな瞳が今それを確認することを拒んでいるようで、理人は大皿を持ち上げた。

 そろそろリビングに行かないと和葉がしびれを切らしてしまう。

「竹内柳都からの伝言だ」

 足を止める。視線を落とすと、笑顔のパンダが目に入った。

「生きたい、と」

 がん、と鈍い音がして初めて理人は自分が皿を落としたことに気が付いた。頑丈な皿は割れてはいないが、時間をかけて作ったクッキーは粉々になってしまっている。

「もったいない……」

 雪比奈が静かに呟いた。ばたばたと歩く音がして父がキッチンに顔をのぞかせる。

「おー。こりゃ派手にやったな」

 からかい交じりの声音でにやりと笑みを向けられる。しかし父はすぐにその笑みをひっこめて理人の顔を覗き込んだ。

「…どうした?」

 あぁ、どうしてこの人は気づいてほしくない事にばかり気づくんだ。理人は散らばったクッキーを鷲掴みにして三角コーナーにぶち込んだ。大皿は乱暴に流しに入れる。

「何でもない。材料なくなったから買いに行ってくる」

 理人は雪比奈と父の間をすり抜けて、そのまま家を飛び出した。

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