第7話
柳都の身体は皺ひとつない真っ白なシーツの上に転がっていた。傷だらけの身体にはいくつもの機械が取り付けられている。ゆっくりと自分に伸ばした手は何にも触れられず己の心臓のあたりをするりと素通りした。
「―――っ」
背筋を冷たいものが走り抜ける。鋭利な刃物を首筋に押し付けられているような気分だ。どくんどくん、と早鐘のように脈打つ鼓動を確かに感じるのに、透き通った身体の心臓はぴくりとも動いていない。
「生きているな」
雪比奈が横たわる柳都を眺めてぽつりと呟いた。母はその言葉をどう受け取ったのか、くしゃりと表情をゆがめて雪比奈に背を向けた。
生きている。今は、辛うじて。
じわり、じわりと視界の端が黒で塗りつぶされていく。
「……目を覚ます可能性はゼロに近いと言われたの」
母が窓際に置いた花瓶から目を離さずに言う。雪比奈は隅にあったパイプ椅子を引き寄せて腰かけた。
「元から身体が弱くて、入院することはしょっちゅうだったの。だけど今回は長引いて、その上柳都が特別可愛がっていた子が亡くなって……ナイーブになってたんだと思うわ。だから自殺なんか…」
「――え?」
素っ頓狂な柳都の声に雪比奈が一瞬だけ視線をよこす。母は雪比奈に背を向けたまま泣いていた。
長いこと入退院を繰り返していると、人の死というものを目にすることが何度もあった。死者に縋りつく家族も見たし、引き取り手がなく憐れまれながら事務的に処理された老人も見た。片づけられたベッドを見ていると死んだ人の名前も知らないのにぽっかりと身体に穴が開いたような気持になった。だけど変わらぬ日常はやってくる。
医師や看護師は寝不足になりながら業務をこなし、テレビの中のヒーローはいつものように悪い奴と戦っていた。それがどうしようもなく虚しかったし、あの子が死んだ翌日に売店で雑誌を買っている自分も馬鹿らしく思えた。人が生きている意味なんてあるんだろうかと、そう思った。
「けど死にたかったわけじゃない!」
どれだけ叫んでも母はこちらを見ない。
俺は何て馬鹿なんだろう。自分の為に泣いてくれる人がこんなにも近くにいたのに。生きる意味だとかそんなもの、生きていなくちゃ悩むことすらできない事だったのに。
「私は柳都の支えになってあげられなかった……!」
震えた声で話す母をよそに、雪比奈は柳都の右腕に繋がれた点滴を眺めていた。
「母さん」
柳都の声は聞こえない。柳都の手は触れられない。それなのに、あくび交じりの雪比奈の言葉は母の耳朶を揺らすのだ。
「まぁ、でも」
明日は晴れだな、とでも言うような軽い口調で雪比奈は続ける。
「自殺ではないと思いますが」
母が勢いよく振り返る。その肘にバランスを崩された花瓶がパリンと音を立てて砕け散った。床に散らばった破片を踏みつけて母は雪比奈を睨み付けた。
「あなたに何が分かるのよ!」
雪比奈が立ち上がり、母に近づく。
「さて、彼の趣味嗜好という意味でならば僕が知っていることは皆無に近いですね。であったのは極々最近であるし、元来僕はこの男に興味がない」
雪比奈はしゃがみこんで破片を踏んでいた母の足を持ち上げた。破片が靴に食い込んではいたが、怪我はないようだ。彼は足を安全な場所におろし、丁寧に破片を拾い集める。
「ただこれだけは自信をもって言えます。竹内柳都に自殺するような度胸は備わっていない」
はんっと鼻を鳴らした雪比奈は確実に柳都を嘲っていた。母がぱちぱちと瞬きを繰り返す。涙はもう止まっていた。
ふふっ!と母が噴出した。柳都はぎゅっと拳を握る。
「それもそうよね。あの子、ピアスの穴ひとつ開けるのに半日もかかったのよ」
「ほぅ。もはや笑いのネタにもできないレベルではありませんか」
「ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「それは構いませんが、出来れば袋か何かをいただけませんか?」
雪比奈が拾った破片を掲げると、母はもう一度謝った。
「売店でゴミ袋か何か買ってくるから、少し待っててくれる?」
「分かりました」
雪比奈はこくりと頷いて母の背を見送った。
「………雪比奈」
今まで出したこともないような低い声で柳都は雪比奈を呼んだ。雪比奈は返事をしない。ただ静かにこちらを見上げている。
「死にたくねぇよ」
世界とか、人間とか、そんな大きな話はもうどうでもいい。ただ俺は、このまま、何も出来ないまま、消えてしまうのだけはごめんなんだ。
「生きてぇよ」
幽霊でも涙なんてものが出るのには驚きだ。ぼろぼろと零れる水滴は頬を伝ってポタリとおちる。だけどそれが床を濡らすことはない。今の自分はどうしようもなく曖昧な存在だ。
雪比奈は何も言わなかった。ただ何かに堪えるように、そっと目を伏せた。
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