第6話

 薄暗い廊下と消毒液の独特の匂い。白い壁には年期の入った汚れが目立つ。

 夢の中で出口のない回廊に迷い込んだようなこの感覚が雪比奈は嫌いではなかった。だって回廊の先にいつも優しい祖父が待っていることを知っていたから。

 小学校も高学年に上がろうとしていたころ、ちょっと変な子と称しながらも平然と雪比奈と接してきた同級生たちが少しずつ離れていった。両親は我が子の普通でない発言にいつも嫌な顔をするから、雪比奈の足は自然と祖父の入院する病院へと向かっていた。

―――そりゃぁまた不思議な体験をしたなぁ

 祖父はいつもそういって雪比奈の頭を撫でた。彼が幽霊の話を信じていないことは誰の目にも明らかだったけれど、皺だらけの大きな手が温かくて、雪比奈はそれだけで満足だった。

―――じいちゃんは死ぬの?

 ある日頭に乗せられた祖父の手の冷たさに気付いた。雪比奈がぽつりと尋ねると、祖父は柔らかく笑った。

―――怖くない?

 祖父はその問いに酷く驚いたような顔をした。考えたこともなかったというその表情に雪比奈の方が驚いたのを覚えている

―――怖いなんてことがあるものか、死なんてものは私にとって何ものでもないんだからな

 祖父はそういって雪比奈に一冊のノートを手渡した。

「死は我われにとって何ものでもない。なぜなら我われが存在するときには死はまだ訪れていないのであり、死が訪れた時には我われは存在しないのだから」

 竹内柳都と書かれたネームプレートの前で立ち止まり、雪比奈はぽつりとつぶやいた。

 祖父の形見となったそのノートには達筆すぎて読みづらい文字でいくつもの言葉が書き込まれていた。最後のページに書かれていたこの言葉は快楽主義のエピクロスのものらしい。

 幽霊を視たことがなく、眠るように息絶えた祖父にとってこの言葉は真実であったのだろう。しかし雪比奈は死してなおそこに存在する人々を知っている。そして今この時、友人の肩に死という重荷がずっしりとのしかかっている。

 そもそも死について考察している時点で死はエピクロスにとって何か意味のある存在だったのではないだろうか。なんて捻くれた考え方をしてしまうのは、こんなところまで来てしまった自分に対する苛立ちからだ。

「何それ」

 雪比奈の横でふわふわと漂っていた幽霊が首を傾ける。雪比奈はそれには応じずに幽霊に向きなおった。

「そんなことよりも覚悟はできたのかい?君のためにこんなところまで出向いてやったのだが」

 幽霊は今自分の身体がどのようになっているのかを何一つ把握していなかった。そんな馬鹿な事があるものか、と思ったのだが真実らしい。病院という空間が嫌いだからと幽霊は言っていたが、彼が一人でここに来ることが出来なかったのには他の理由があるのではないかと感じた。

「………もうちょい待って」

「僕は君が何に怯えているのか知らないし興味もない。ゆえに君の為に使ってやろうと思える時間もそう長くはないわけだ。あと三十数を数えたら僕は家に帰るからそのつもりで」

 いーち、にーい、と本当に数え出してやると、幽霊は慌てたようにわたわたと両手を振った。

 そもそも、何故自分は彼と行動を共にしているのだろう。雪比奈がした約束は彼の一言を月見里に伝えてやるというだけのものだ。彼がその一言を決めあぐねていようと雪比奈には関係のない話である。

 死というものに他人より慣れたつもりでいたというのに、それが身近な人間の許にやってくるとこうも心が乱れるものだとは知らなかった。辛い。苦しい。哀しい。そんな風に分類が出来たらよかった。何とも言えないもやもやとした感情だけが肥大化して心臓を覆う。

いっそのこと自分が死んでしまいたい。嫌だ、死にたくない。

月見里と、仲間たちとぼんやりとぼんやりと本を読むあの空間には生きていなければ存在できないのだから。

「あの…」

 か細い声に雪比奈は振り返る。幽霊ではない。女の声だ。

「どちら様でしょうか」

 女は不信に思っていることを隠そうともせずに雪比奈を見つめた。身長は雪比奈より頭一つ分低く、花の活けられた花瓶を大切そうに抱えている。年は恐らく四十代後半から五十代前半。

 雪比奈はちらりと幽霊を見る。彼は黙したまま女から目を離さない。おそらく母親だろうとあたりをつける。雪比奈が丁寧に頭を下げると、彼女は少し驚いたようだった。

「雪比奈蓮といいます。柳都くんには仲よくしてもらっています」

 他の友人たちと雪比奈とではおそらくタイプが違うのだろう。彼女は訝し気な表情をしたまま雪比奈を病室に招き入れた。

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