第5話
「はい、召し上がれ」
食卓に並ぶ黒々しい物体と鼻をかすめる炭のような臭い。理人は額に手を当てて項垂れ、妹の和葉は箸を持ったままぷるぷると震えた。
「明美が俺の為に作った手料理だと?嬉しいねぇ。理人の料理もそりゃ絶品だが、やっぱり妻の料理は格別だからな!ほら子供たち!明美の愛だ!残さず食べろよ!」
にこにこと料理を勧める母。はっはっは―とハイテンションに料理をかきこむ父。白飯を咀嚼する音がゴリゴリというのはどう考えても異常であるのだが、久々の妻の手料理に浮かれた父は気づかない。この惨状を避けるために理人は十になる前に料理をマスターしたのだが、気まぐれな母は年に何度か台所に立ってしまうのだ。
「おい兄貴。何をどうしたらメシがあんな音たてんだ。つーか親父の歯は大丈夫なのか」
「高三の女子が兄貴とか親父とかいうんじゃねぇよ。メシじゃなくてご飯な」
「そんなこたぁどーだっていいんだよ。大事なのは今、この状況をどう乗り越えるかだ」
兄妹の頭には母が手間暇をかけて作った料理を食べないという選択肢はない。たとえそれが黒焦げの炭のような味だったとしても、歯にダメージを与える強固な白飯だったとしてもだ。二人が頭からひねり出そうとしているのはこの殺人的な料理の味を出来るだけ緩和して胃の中に収める方法である。
「ちなみに母さん、今日のメニューは?」
父が黒い物体を口に運ぶ。きーん、と刃と刃がぶつかったような音がして、和葉がぶるりと身震いをした。
「あら、見てわかるでしょう?肉じゃがよ。本当はお味噌汁も作りたかったんだけど、思ったよりも時間がかかっちゃって。ごめんね?」
「いーよいーよ!十分だよ!」
和葉が物凄い勢いで応じる。全くだ。以前出された納豆と山芋の味噌汁はそりゃあもう酷かった。
「そう?なら早く食べなさい。それともなぁに?お母さんのご飯が食べられないって言うの?」
「いただきまーす」
理人と和葉が声を合わせる。理人はお茶漬けのもとと茶葉の入った急須を妹に差し出した。固い白飯を消化するための兄妹の常套手段である。
「そうそう。今日三者面談に行ってきたんだけどね、和葉ちゃん、理人くんと同じ大学に行きたいんですって」
「…は?」
「ちょおぉぉぉぉ!」
炭を流し込む用の水をコップに注いでいると、母が嬉しそうな顔で言った。理人の隣で和葉が大声を上げる。
「将来についてはまだよくわからないから、とりあえず憧れの理人くんに追いつきたいんですって!もうお母さん感動しちゃった!」
「なんだそれは!猛烈に可愛いな!うちの子供たちは天使だな!」
「本当。二人ともいい子に育って嬉しいわ」
「明美の教育が良いからさ」
「そうでしょう?」
あはは、うふふ、と両親が笑い合う。理人は自分の顔に血が上っているのを感じてぺちぺちと頬を叩いた。ちらりと隣を見ると、和葉は熟れた林檎のような顔をしていた。
「言うなっつったじゃん!マジあり得ねぇんだけど!最悪!」
「こんなおもしろ……嬉しいこと報告しない方がありえねーでしょ?」
「今面白いっつったろ!面白がってんだろ!」
「じゃれ合う妻と娘。あー。癒される」
うちの両親――特に母親――は自分の子供を玩具だと思っている節がある。理人や和葉をからかってはによによと笑っている。いちいち反応を示す和葉は理人の倍は遊ばれているだろう。理人も和葉もこれが両親なりの愛情表現だと理解はしているが、思春期には辛いものがある。
「言っとくけど、今のお前の成績じゃ相当頑張らないと無理だぞ」
中学、高校の六年間を野球に捧げてきた理人であるが、成績は常に上位をキープしてきた。もともと要領が良い方なので、授業と宿題をこなすだけである程度頭に入ってしまうのだ。そんな理人がかなり真剣に勉強して通った大学は不器用なところがある和葉には難関と言えるだろう。
「それぐらい分かってるっつの」
和葉がちっと舌打ちをする。理人はジャガイモらしきものを口の中に放り込んだ。苦いというより渋い。ざらざらとした感覚が口の中に残る。
「それなら和葉ちゃん、理人くんに勉強教えてもらえばいいじゃない」
「はぁ?ヤだよ」
そうだろうな、と思いながら水を飲む。年子の兄妹が仲よく勉強をするのはせいぜい小学校までだ。
「俺の友達に頼んでみるか?雪比奈っていうんだけど。そいつ教育学部だし、家庭教師のバイトもしてるから教えるのは上手いと思う」
うちの本を好きに読んでいいと言えば喜んで引き受けてくれるだろう。なんだかんだで読書家な父が謎の人脈で絶版した本を多く収集しているという話をしたら随分羨ましがっていた。
「あら、じゃぁ明後日の日曜日うちにご招待すればいいわ」
そうだな、と言いかけて理人は口を噤んだ。明後日。その日の内に理人は決断しなければならない。他人の命を犠牲にしてこの暖かな日常を享受し続けるか、本来の運命を受け入れるか。
―――運命。
そう、死ぬ運命だ。
「どうかした?」
母がきょとんとした表情で首を傾ける。理人はいや、と首を振った。
知らなければよかった。知らないままなら平然と生きて行けたのに。自分たちの勝ち星の分だけ踏みにじられた夢がある。そう気づいてしまったら、甲子園の優勝校だってきっとあれほど輝かしい笑顔ではいられない。
「勉強には甘いものが必要よね。理人くん、お菓子作ってね」
「……それ、母さんが食べたいだけじゃね?」
空になったコップに水を注ぐ。この調子で水を消費していくと食事が終った頃には腹がたぽたぽになってしまっているだろう。
「理人!明美のお願いは絶対だ」
「このおっさんマジでうぜぇ」
和葉が苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。全面同意だ。
「ジンジャークッキー作って」
次いで照れたようにそう言った妹を理人はまじまじと見つめた。高校に上がってからは太ると言って理人の作った菓子をあまり食べなかった和葉だが、そういえばジンジャークッキーだけは食べていたような気がする。
「いいよ」
理人は微笑んで、そっと和葉の頭を撫でた。
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