第2話

 病院というところは目が痛くなるほどに白の多い場所だった。

白いシーツばかりが干された屋上の端っこで柳都はぼんやりと空を眺めていた。白以外の色を見たくなって屋上までやってきたのに、雲も白いだなんてことに今更気が付いた。背中がフェンスに擦れてちくちくと痛む。

 死にたいわけじゃなかった。ただぼんやりと思っただけだ。このまま自分が死んでしまったとき、何人の人が気づいてくれるだろうか。毎日のように人が死んでいくこの世界はとどまることなく平然と回り続けるのに、流れの中で歩みを止めてこちらを振り返ってくれる人間が果たして居るのだろうか。

「いない、だろーな」

 くつりと笑ったとき、風がぶわりと柳都の身体を包み込んだ。フェンスが小さな音を立てて緩やかに倒れた。

落ちている。そう気づいたとき思わず叫び声をあげた。一拍前までの穿った思考は宇宙のかなたへ飛んでいく。もがくように伸ばした右手は誰に掴まれることも何を掴むこともなく、ただ哀れに天に向けられていた。


「と、いうわけだ。悪かったな」

 死神と名乗ったのは恐ろしいほどの妖艶さを持つ女だった。果ての見えない空間には火の灯された蝋燭が星の数ほどに散らばっている。その中心にぽつんと置かれた木製の椅子。最近テレビで特集されていたバズビーズチェアに似ているそれに、女は平然と座って足を組んでいた。右手はだらしなく肘掛にかけ、左手には日本酒のらしき一升瓶が握られている。決して自分のミスで死んだ相手に謝罪する態度ではない。しかし柳都がそれに怒ることはなかった。生まれてから十数年。いたって平凡な日常を過ごしてきた柳都はこの展開についていけるだけの順応力を持ってはいない。

「……そんなに似てないと思うんすけど」

 ようやっと呟いたのそんなくだらない言葉。女は愉快そうに紅い唇をゆがめて柳都の前に並べられた二つの蝋燭を見やる。細いが均整の取れた蝋燭が死ぬはずだった月見里という男のもの。太くごつごつとして、丈夫そうだが不格好な蝋燭が柳都のもの。唯一同じなのはその色だけだ。

「酔っていたからな」

 女が瓶を傾けて中身を口に流し込む。どう見ても反省はしていない。

「神というのは本来理不尽なものだ」

 柳都の不満を読み取ったのか、女はにやりと笑ってそう言った。

「お前の身体は何とか三日もつようにしてやった。その間に月見里から火を譲り受けることが出来ればお前は無事生き返ることが出来る」

 女が瓶を振る。中身が空になったことを確認すると白けたような顔をして瓶を放り投げる。それをキャッチしたのはどこからともなく現れた子供だった。七、八歳ぐらいであろうその子供はひょろりとした体躯には似つかわしくない大きな袋をずるずると引きずっている。

「火の受け渡しには本人の同意が必要だから、死にたくなければ三日の内にせいぜい月見里を説得することだ。あの男にお前は見えないが、周囲には面白い人間がいるからどうにかなるだろう」

 子供は空になった瓶を袋の中に入れ、新しいものを取り出すと女に差し出した。女はそれを受け取ると栓を開けてぐびぐびと呷る。

「セツ、あれを月見里の元に案内してやれ」

 子供がこちらをちらりと見て、こくんと頷いた。彼の名はセツというらしい。とてとてと近づいてきた子供がそっと柳都の手を握る。冷たい手からは体温が感じられない。彼もまた人ではないのか、とぼんやりと思った。

「面倒だがな、月見里への説明は俺からしておいてやる。せいぜい頑張ることだ」

 女の言葉が終わるやいなや柳都の周囲の景色がぐるりと一変した。

「ここは……」

 六畳ほどの部屋は殺風景なものだった。大きな本棚にはぎっしりと本が並んでいる。勉強机には教科書と筆箱と、野球ボールがころりと置かれているがそれだけだ。大量の服やアクセサリー、ファッション雑誌でぐちゃぐちゃの柳都の部屋とは全く異なった部屋だ。

「月見里理人の部屋」

 子供がぽつりと呟いた。鈴の鳴るようなか弱い声だ。子供が指差したベッドでは端正な顔立ちの男がすーすーと穏やかに眠っている。子供に示されるまでその存在に気付かなかったことに柳都は驚きが隠せなかった。

 子供がじぃと柳都を見つめる。柳都が首をかしげていると、彼は柳都の耳に口を近づけた。

「ごめんなさい」

「え?」

 囁かれた言葉の意図が分からずに聞き返す。しかし子供は、その場から忽然と姿を消していた。

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