一人で逝かないで

 警視庁の中は火災報知機のベルが鳴り響き、職員や警官が「消火器!」「消防署に連絡を!」と走り回っている。

 美晴は階段から駆け下りてくる人に逆らうように、階段を駆け上る。

 ふいに腕をつかまれ、見ると事務所のスタッフだった。


「よかった、無事だったの?」

「3階」

 スタッフは囁いて、上を指した。

「ありがと」


 3階に着くと、留置所の扉が開いている。フロアに飛び込むと、鉄格子は開けられている。みんな逃げたのだろう。


 ――怜人? 怜人は?


 奥の部屋から看守が出てきた。美晴はとっさにドアの陰に身を隠す。

 看守は「そろそろ行かないと、見つかるぞ!」と声を荒げている。


 ――この声!


 二人の走ってくる音が聞こえる。美晴はドアの隙間からそっと覗いた。

 ドアを走り抜ける瞬間に見えた横顔は、確かに白石だった。


「おい、オレはどこに逃げればいいんだ?」

「外に車が用意してあるよ!」


 二人は階段を駆け下りていく。足音が小さくなってから、美晴はドアの陰から出た。白石が出てきた房に向かって走る。


 まず見えたのは、怜人の背中だった。

 普段より、背中の位置は高くて――見上げると、鉄格子にベルトをかけて、怜人は首を吊っている。


「いやあああっ」 


 美晴は絶叫した。慌てて中に飛び込んで、怜人の身体を持ち上げる。見上げると、怜人は穏やかな表情で目をつむっている。


「怜人、怜人、眼を開けて、怜人!」

 呼びかけるが目を開けない。

 怜人の身体を下ろしたくても、美晴の力ではどうにもできない。


 ――どうしよう。どうしよう。


「怜人、怜人、お願い、死なないで。私を一人で置いていかないで」

 美晴は怜人の太ももに顔をうずめる。



 白石は建物から飛び出して、男とともに待機していた車に向かって走った。

「白石さん……?」

 声をかけられて振り返ると、ゆずがいる。ゆずは白石の格好に困惑した様子だ。


 ――見られたか。


 白石は舌打ちをした。

「美晴さん、見なかった?」

「え?」

「美晴さんが中に入って行っちゃったの。怜人さんを助けるって」

 白石は「マジかよ!」と絶叫し、踵を返した。


「怜人、お願い。目を覚まして、怜人」

 美晴は泣きながら訴えていた。

 怜人の身体からは、急速に体温が失われていく。美晴は足にしがみついて持ち上げながら、「怜人、お願い、逝かないで」と泣きじゃくった。


 ふいに、誰かが駆けて来る足音が聞こえた。

 美晴は、「助けて、こっちです!」と叫ぶ。

「何してんだよっ」

 息を切らして房の前に立ったのは白石だった。

「こんなところにいたら、つかまるだろ?」

「怜人を早く下ろしてっ。怜人が死んじゃう」

「もう、死んでるよっ」

 白石は叫ぶように言う。


「もう怜人は死んでるし、オレの力じゃ下ろせないから」

「ウソ、ウソ。怜人を下ろして! 早くしてっ」

「なんで……なんで、逃げなかったんだよ! せっかく逃がしてあげたのに。あんただけはつかまってほしくないから、あの場から逃がしたのにさああ」


 白石は、美晴の身体を怜人から引き離そうとする。

「いや、やめて!」

「もう手遅れだよ。早く逃げないと」

「いや、いやあっ!」

 怜人から引き離されて、美晴は白石を力いっぱい突き放す。

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