パニック

「あら、ごめんなさあい。よろけちゃったあ」

 レイナはヒカリを突き飛ばした。ヒカリは派手に尻餅をつく。

「いったあ~い、何すんのよっ」


 バレッタは無残な姿になっている。

 レイナは床にへたりこんだ。震える手で、バレッタを拾い上げる。


「ちょっと、あんたのこと、傷害罪で」

 レイナの絶叫が響き渡る。

 その激しい音量に、ヒカリは思わず耳を押さえる。


「お兄ちゃん、お兄ちゃあん」

 大粒の涙が床に零れ落ち、たちまち涙の池をつくる。


 ――お兄ちゃんにもらった、バレッタが。お守りのバレッタが。


 バレッタをくれたときのタクマの顔が蘇る。

「一緒に街に行こう」と言ってくれたタクマ。何度も二人で手をつないで、ゴミ捨て場を歩いた。

 もう、返ってこない、あの日々――。

 慟哭。鏡がビリビリと震える。


「どうした、レイナ?」

 裕が血相を変えて楽屋に飛び込んで来た。

 レイナは泣き崩れて、ヒカリは耳を押さえてうずくまっている。


「どうした、レイナ。何があった?」

 レイナは泣きじゃくりながら、「お、お兄ちゃん……っからもらった、バ、バレッタ」と、壊れたバレッタを見せた。


 裕は一瞬固まってから、ヒカリの腕をつかんだ。

「おい、レイナに何をした? 君がバレッタを壊したのか?」

「……手が滑って落としちゃっただけだし」

「ウソ、ウソだあ。踏んだ、足で」


 レイナは再び慟哭する。

 裕はヒカリの頬を平手打ちした。


 ちょうどアンソニーがトムと一緒に戻って来たところで、アンソニーは悲鳴を上げた。

 ヒカリは頬を押さえながら、裕を睨みつける。


「何よ。暴力振るったわね? 訴えるから」

「ああ、訴えればいい。君には二度と会いたくない。レイナには二度と近づくなっ!」


 裕が声を荒げる。その剣幕にヒカリは顔をこわばらせた。


「何よ、そんなオモチャ。代わりのを買って返せばいいんでしょ?」

「そんな簡単な話じゃない。代わりなんてないんだっ」


「これは、一体、何事だ?」

 スティーブが騒ぎを聞きつけて、楽屋に入ってきた。

 トムはレイナに駆け寄り、「タクマにもらった髪留め、壊されちゃったの?」と背中をさする。


 アンソニーがスティーブに事情を説明すると、スティーブの目は吊り上がり、こめかみがピクピクと動いた。

 スティーブはヒカリに向かって、「Get out!」と叫ぶ。


「このアマ、なんてことしてくれたんだ? レイナはオレが呼んだんだ、お前のことは呼んでない! オレのステージをぶち壊したら、ただじゃおかんぞ。オレがお前を訴えてやるから、覚悟しておけ。オレの前に二度と、二度と現れるな!」


 早口の英語で叫ぶのを、アンソニーが訳した。

 ヒカリは顔色を変えた。

 世界的なビッグスターに訴えられたら勝ち目がないことを、瞬時に悟ったらしい。

 スティーブはスタッフに命じて、ヒカリを楽屋からひきずり出した。


「あーあ。ヒカリの出番、なくなっちゃったわね」

「大丈夫か? 他には何もされなかった?」


 裕はレイナの肩にそっと手を置いた。

 レイナはまだ震えながら涙を流している。


 スティーブがしゃがみこんで、レイナの顔をのぞき込んだ。

「大切な人からもらった髪留めだったんだね? って」

 レイナは涙顔でうなずく。

「そうか」

 スティーブはしばらく考え込んでいた。


「彼女は、歌えるだろうか」

 スティーブは裕に尋ねた。

「彼女の出番まで、後1時間ぐらいはあるけど……どうだろうか」

 裕も考え込んだ。


「本番、5分前ですけど、どうしますか?」

 スタッフが困り果てた顔でスティーブに尋ねる。

 スティーブは自分のチームのスタッフに何かを命じた。

「一緒に来てる見習いの歌手に、代わりに前座をさせるみたい」

 アンソニーが説明してくれた。


 スティーブはトムに「ヘイ、ボーイ」と手招きした。


「スティーブの弟子の歌手が歌うから、一緒に踊って来なさいって。ご機嫌なナンバーだから、君なら踊れるだろうって」

「えっ、オレが!?」


 トムは一瞬目を輝かせたが、「でも……」とレイナを見る。

「レイナは私たちで何とかするから。心配しないで、踊って来なさい」

 裕が言うと、「分かった。それじゃ、レイナが元気になるまで、踊って来る!」とトムは楽屋を飛び出した。


「レイナが落ち着いたら、教えてくれ。出番はもっと後にしてもいい。アンコールにしてもいい。順番を変えるのは、こっちで何とかするから、なんとか落ち着かせてほしい。私は、レイナと一緒に歌いたいんだ」


 スティーブが楽屋から出て行こうとすると、「一つだけ、レイナが歌えるようになる方法があるかもしれない」と裕は呼びとめた。


 それからアンソニーに、「笑里を連れて来てくれないか。たぶん、彼女がいないと、レイナは動揺がおさまらない」と頼んだ。

 アンソニーは「OK」と早足で出て行った。

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