はきだめの乾燥剤

エリー.ファー

はきだめの乾燥剤

 僕はここから抜け出すのだ。

 ずっと、同じ場所に居続けることの苦痛に慣れてしまう前に。

 ここから抜け出すのだ。

 何度も何度も、この言葉を繰り返したが。

 ここから抜け出すのだ。

 生温い日曜日のようなものを心の中に抱えながら生き続けてきた人生を捨てて、ここから抜け出すのだ。

 僕は絶対に自分を取り戻す。

 本当だ。仮想の世界を作り出し、そこに逃げるようなことはしない。戦う。戦うのだ。自分の武器を持ち、その武器を使って色々な人との魂の削り合いに自分の身を置くのだ。

 気が付けば、死んでいる。

 気が付かなくとも、死んでいる。

 それが当たり前の世界だからこそ、自分の命を認識できる。

 そんな世界に飛び込むのだ。

「お母さん、僕は戦争に向かいます。」

「そうかい。なら、その前にトマトをとってきてくれるかい。今日見に行ったら熟れていてねぇ。」

「あぁ。はい。」

 僕はトマトを取りに行く。

 僕の家はトマト農家だ。

 他国の野菜であるから、余り評判は良くないけれど、でも、美味しいから。

 ある程度の客は必ず買ってくれる。

 そういうものだ。

 何かを作るというのは。

 こちらが何であるかと思案を巡らせる前に、何かと答えが待ち構えているし、その度に自分の生き方や考え方を見つめ直すきっかけになる。

 農作物など、その最たる例なのだ。

 僕の母親は、何かと野菜に僕を例えて褒めたし、叱ったりもした。分かりにくい部分があったことは事実であり、何度も何度もその言葉を反芻させることで理解を深めたのも事実である。

 僕の母親は、元々、東京に住んでいた。

 東京の有名な大学の研究員だった。

 確か、専攻は植物学だった。その道の権威と呼ばれるようなものではなかったものの、名前を聞けばある程度知り合いが集まって来る。いわゆる、その道ではほどほどに成果を上げたという事なのだと思う。

 僕は、どちらかというと研究肌ではなく、藝術家肌なので、そのあたりのことは、凄いとは思っても尊敬にまで気持ちが上がることはない。

 母もそのことは分かっているから、無理に理解させようとも、理解の範囲を広げさせようともしなかった。

 ただ、分かるように。

 ただ、感じられるままに。

 そのような教育をしてくれた。

 僕は普通の家庭よりもかなり幸福に育っていると思う。家に問題はないし、お金にも困っていないし、親族間の問題もない。隣近所に疎まれているという事もない。

 本当に、何一つ悩まずにここまで来た。

 自分のことだけを悩んでここに来ることができた。

 ありがたい話だ。

 トマトをもいでいると、ワープショネートから連絡が入った。すぐさまスイッチを入れて、耳の裏の骨の所に当てて振動を確認する。悪くはない。山間だから受信に時間がかかるかも、と思ったが、そんなことはなかった。

「もしもし。」

「おめでとうございます。」

「はい。」

 僕の名前が聞こえる。

 僕の名前のすぐ後に、僕の欲していたものの名前が連なる。

「もしもし。」

「はい。」

「戦争には行けなくなりますが、その、問題はないでしょうか。ここから先は手続きの話になりますので、メモをするか録音してください。」

「はい。ありがとうございます。」

 僕はそのまま深く頭を下げた。

 入道雲と。

 涼やかな風と。

 トマトは。

 よく合うのだと言っておかねばなるまい。

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