第8話「噂のうわさ」






   8話「噂のうわさ」





 次の日、千春は熱を出してしまった。


 やはり体がもたなかったようで、朝は起きれないほどになっていた。

 お昼過ぎになってから目が覚めると、部屋の外から香ばしい匂いがしてきた。体調が戻りつつあるのか、「お腹が空いたな。」と、体を起こすと、丁度部屋のドアが開いた。



 「千春、起きてたのか……。」

 「うん、少しお腹が空いたの。元気になった証拠かな。」

 「昨日倒れたんだ……無理はするな。それと、一応お粥作ったんだけど……。」

 「……え?」


 

 千春は驚いて、秋文の顔を見つめてしまう。

 何でも出来てしまう彼だけれど、料理だけは嫌いで苦手だと言っていた。

 それなのに、自分のために作ってくれた事が嬉しかった。今まで千春は体調を崩す事はあまりなかったし、秋文は疲れてり少し風邪をひいたりすると、すぐに休ませてくれてた。だからこそ、倒れたり寝込んだりすることはなかったのだろう。

 こうやって1日寝込んでいる姿を彼に見せたのは始めてなので、彼はとても心配してくれたのだろうと、千春は思った。



 「食べたいな、秋文の作ったお粥……。」

 「わかった。持ってくるから待ってろ。」

 「ありがとう。」



 秋文は部屋を出てから、トレイにお粥とイチゴ、そして水と薬を乗せて戻ってきた。

 お粥は少し焦げており、先ほど漂ってきた香ばしい香りはこれだったのだと、千春は理解した。


 「ありがとう。頂きます。」



 千春は、ベットの上で座り込んで、お粥を口に入れた。

 少ししょっぱくて、お米が固めだったけど、とても優しい味がした。秋文が自分を思って作ってくれたと思えるだけで、とても嬉しかった。


 「おいしい……ありがとう……秋文。」

 「……おまえ、なんで泣いてるんだよ。熱まだあるのか?」

 「違うよ……嬉しくて、なんか感動しちゃった。」



 千春は笑いながらポロポロと涙を流すと、秋文は困ったように笑い、そして頬を赤く染めていた。



 「バカな奴だな。………おまえが倒れた時ぐらいちゃんと飯作れるように練習しておく。」

 「じゃあ、今度一緒に作ろうね。」

 「あぁ………。だから、早く元気になれ。ほら、イチゴ好きだろ。」



 秋文にイチゴを唇に当てられて、千春はそのままパクンと食べさせられてしまう。

 こうやって甘えさせてくれる旦那様がとても愛しくて、千春はしばらくの間、子どものように彼に食べさせて貰ったのだった。







 1日休みを貰った後。千春はいつも以上に張り切っていた。

 「秋文選手と結婚したなんて!」と言う職場の女性の言葉にも「ごめんね。なかなか言えなくて。」と、謝罪をして周り、そして好奇な視線は無視をする事に決めた。

 千春と秋文は、何も悪いことはしていない。今は珍しいだけで千春を見ているのだろうが、少し時間が経てば、きっと見慣れてくるのだろう。そう思って、今まで通り生活をする事にした。


 そして、無事に仕事の引き継ぎも終わり、千春は自宅での仕事をスタートさせていた。



 自宅にいれば、朝は彼を送り出せて、家事も出来る。自分のペースで仕事にも集中出来るので、仕事量も増えような気がしていた。

 夜は、彼を出迎えて「おかえりなさい。」と言える。秋文も、「誰かが待っててくれるのもいいな。」と笑って、ただいまのキスをしてくれたのは、千春も嬉しかった。


 試合も始まれば、近くの会場だったら応援に行けるし、遠征であれば集合場所まで送り迎えも出来る。

 仕事も出来てら、彼のサポートも出来る。

 この方法を選んで良かった、と千春は思っていた。





 そんな順風満帆の生活をしていた千春だったけれど、この日は違っていた。

 今日は月に数回、会社に顔を出す日だった。

 仕事の報告と、依頼の確認だった。

 いつも早めに会社に着いていた千春は、ビルの中に入っているカフェでコーヒーを飲みながら書類を見つめて仕事の確認をしていた。



 「久しぶり。」



 そこへ、隣に誰かが座ったと思ったら声を掛けられたのだ。

 その声を聞いた瞬間、千春は体が固まってしまった。忘れるはずもない、その人物の声。 

 千春は、ゆっくりと隣に座る人へ目を運んだ。



 「駿、先輩……。」


 

 そこに居たのは、千春が秋文と恋人になる前に付き合っていた元彼氏だった。

 千春が憧れていて、やっと付き合えてよろこんだ途端に「中身が想像と違った。」という理由でフラれた。そして、その後に体の関係だけを求められた。

 千春にとって、あまりいい思い出がない。今となっては苦手な男性だった。


 

 「たまたま見かけてね。相変わらず、美人だね、千春ちゃんは。」

 「……駿先輩、私……。」



 強ばった顔で、今の状況を伝えようと千春は思いきって声を出した。

 けれど、綺麗な顔で微笑んだまま駿は、千春の言葉を遮った。



 「結婚したんだって?おめでとう。」

 「あ、ありがとうございます。」


 

 まさか、お祝いの言葉を言われるとは思わず、千春は呆然としながらも、返事をする。

 やはり結婚したと知れば、前みたいな事を言われないのだろうか、と少しだけホッとしてしまう。

 先輩も、何年も前の事だ。きっともう何とも思っていないのだろう。千春はそう思った。



 「あの、秋文選手と結婚だなんて、すごいね。どこで知り合ったの?」

 「学生の頃からの友達で………まさか、彼と付き合うことになるとは思ってなかったんですけど……。」

 「なるほどね。だから、僕の誘いを断ったんだね。」

 「………え……。」



 先輩の言葉に、千春は目を大きくしたまま硬直させてしまう。それぐらい、衝撃的だった。

 彼は体の関係を断った理由が、何だと言うのだろうか。



 「そ、それは、どういう………。」

 「だって、あのプロ選手が彼氏になったんだ。僕との関係が続いてたとバレたら、折角の玉の輿が台無しになるもんね。」

 「そっ、そんなつもりで秋文と付き合ったわけではありません!」

 「………結婚して玉の輿になったから、仕事を少なくしたんでしょ?」



 先輩の思いもよらない言葉に、千春は絶句してしまう。


 結婚して仕事を止めると、そんな風に思われてしまうのだろうか。

 千春は、秋文が引退することを伏せながら必死に説明をした。



 「それは違います。彼のサッカー生活をサポートしたいから、自宅で仕事をしているだけです。仕事内容は簡単なものになったかもしれませんけど、量は減ってないはずです。」

 「………でも、実際は他の誰かに今までやっていた仕事を任せてるんでしょ?」

 「そ、それは………。」

 「僕は彼女として君を好きにはなれなかったけど、仕事では一目置いていたんだけどね。残念だよ。」

 「先輩、それは違うんです……!」

 「でも、みんなそう思ってるよ?」

 「え……。」

 「それじゃあ、仕事は僕たちに任せて、君は旦那様との新婚生活を楽しんで。」



 言葉を無くしてしまった千春を、ニヤリとした笑みを残して、駿はすぐに席から立ち上がり去ってしまう。




 

 千春は、先輩が去っていく足音を聞きながら、呆然と冷めたコーヒーを見つめる事しか出来なかった。


 待ち合わせの時間まで残り少ない。



 それなのに、体が動かない。

 しばらくの間、千春は何も出来ずに俯くしかなかった。








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