富嶽かく語りき⑦
死闘を終えた夜、熊の亡骸は庭に安置された。
欣吾と一緒に警察に届け出て、通りいっぺんの聞き取りと病院で診察を受けてから家に戻った。案の定、傷の多くは自然治癒しており、医師を驚かせた。
熊の死体は
富嶽は縁側に腰かけて、じっと巨熊を見つめ続けた。
あれだけ手を焼かせた強敵がもう動かない。一時は死すら脳裏をかすめたほどの難敵が吠えることもない。
ただの暴力への虚しさが募る。あのときの自分は獣以上に獣だった。せめて木剣があれば、もっとスマートに仕留めることもできたはずだ。
真剣は中学に上がるまで持たせないという父の方針により、樫の木剣を冒険の御供にしていた。しかし、頭に激痛を受けてもがいた際、手の届かぬところへ蹴飛ばしてしまい、素手による野蛮な戦闘を余儀なくされた。
(……私に殴られて痛かったか?)
思えば熊の境遇も不憫を極めるものではないか。
三メートルの怪物級のツキノワグマの出現など誰にとっても予想外の事態であろう。対岸の村の住人の対応が拙かったのは一概に責められまい。
しかし、いたずらに彼を恐れ、逃げ惑い、日中の民家で食料を貪るのをさえ看過した結果、熊を増長させ、人間への警戒心を失わせた。
臆病さという野生で生き延びる知恵さえ忘れさせてしまったのだ。
猟銃で追い立てられても復讐心を抱かせるまでに。
「凡そはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」
ライバルを弔いたい。富嶽は白骨の御文を口にした。
巨熊が憎悪を現世へ捨て去り、湖国を守る神霊になることを祈って。
「いまに至りて誰か百年の形態を保つべきや……
拝読半ばで富嶽はぽかんと口を開けた。
ふっと黒い毛皮から靄が立ち上ったのだ。
「割れ三日月……?」
靄は亡骸の上に獣の輪郭を作り出す。神々しい真っ白な熊だった。
洗い出された無垢な魂そのものであった。
──回想中断──
「熊の霊魂はしばらくその場にとどまっていましたが、じきに夜空へ飛び去って行きました。成仏できたのだと私も肩の荷が下りた思いでしたよ」
富嶽の顔に明るさが戻ったのを見て、忠太の口元も緩んだ。
「若先生の好敵手なら天上へ誘われたのも納得ですね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます