富嶽かく語りき④

 思い知れ思い知れと拳の雨を降らせて二十分も経過しただろうか。

 ようやく富嶽は相手の異変に気付いた。

 「え……? ちょっと? もしもし?」

 大熊はぐったりと動かなくなっていたのだ。

 頭を叩いても、揺すってみても、縫いぐるみのように無反応だ。

 「死んでいる……」


 人間とは比較にならぬほど丈夫な熊を屠った。しかも素手で。

 憤怒に我を忘れた結果とはいえ、富嶽は今さらながら自身の剛力に戦慄した。

 生まれて初めての生死を賭けた戦いであったことも熊には不運であったと言う他はない。力加減も含めて何もかもが幼い富嶽には初めてだったのだから。

 「参ったな……」

 もはや取返しのつかぬことなので、両親に報告すべく下山すると決めた。


            ──回想中断──


 「ご両親は何と……?」

 公言していないが忠太は、富嶽の事実上の恋人と云ってもいい。

 互いに打って出る気概に乏しいので、傍目にももどかしい状況ではあったが。

 「二人ともびっくりしましたが、その後の反応が正反対でした」


            ──回想再開──


 「ただいま帰りました……」

 「富嶽!」

 夕刻、古民家風の自宅へ戻った娘を見て、両親が庭へ出てきた。

 息は荒く、濃紺の道着はズタズタ、所々に血が滲んでいる。しかし、何よりも両親を驚かせたのは娘が持ち帰った獣の死体。


 「あの……これは……」

 「聞いている。破れ三日月とやらだな」

 山伏みたいな総髪の父・片山欣吾かたやまきんごが富嶽に肩を貸す。

 熊に勝てるか?──面白半分で富嶽をけしかけた同級生たちが、本当に山へ登って行ってしまったので怖くなり、両親に事情を打ち明けに来たという。


 「すまん。迎えに行くべきだった」

 「……強敵でしたが父様の手を借りるほどの相手ではありませんでした」

 「そういう問題ではないが小言は後だ。医者を呼ぶから家で休め」

 「大事たいじありません」

 強がりではなく、疲弊しているものの命にかかわるほどの怪我をしていないことは欣吾にもすぐわかった。自分の手当で事足りる。

 「それより……無用な殺生をしてしまいました」


 「この熊、おまえ一人で殺したのかえ?」

 母・涙怖るふが死んだ野獣の頭を掴んで言う。

 「はい……寝込みを襲われたもので自制心を失ってしまいました」

 おのれの未熟を恥じて富嶽は頭を下げる。しかし母は褒めた。

 「ようやった! 素手でやったか?」

 「え? はい、木剣が手元になかったので」

 「偉いぞ富嶽。我らの娘にふさわしい武功じゃ!」

 百八十センチの娘より大柄な涙怖は、手負いの十一歳児の背を叩きまくった。


 小躍りせんばかりの妻の盛り上がりに欣吾が軽く釘を刺す。

 「喜べる心境ではないことぐらい察してやれ」

 「固いことを言わんでおくれダーリン。こやつ、輪をかけて偉いことには、向こう傷しか受けておらん。敵に背中だけは見せなかったわけじゃ。これなら負けても湖国の山河を護る神霊になること請け合いじゃて!」

 欣吾はやれやれと吐息を漏らした。


 「富嶽、おまえが責任を感じることはない。どのみち熊は殺される運命にあった。入院中の被害者が息を引き取ったそうだ」

 そう言って、野獣の傍らに膝を着き念仏を唱えた。

 涙怖はそんな夫を解せぬといった表情で見つめている。


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