貌のない神

 上社の裏手からは禁足地となっている山々がはっきりと見えた。文献によれば目的の場所はそのふもと鬱蒼うっそうと茂る森の中にあるようだった。

 人の手の入っていない木々の間を進み、ときに崖をくだり、ときに沢を渡る。日が真上に上るまで歩いているとひらけた場所に出た。そこにはポツリと大きな岩がひとつだけ転がっていた。

 磐座いわくら、というやつだろうか。大きな岩の上の方にはこけの薄い場所があって昔に注連縄しめなわでもされてたように見えた。その付近にはひっそりと何か平べったくすら見えるひし形の中心に正方形が配置された紋とおぼしきナニカが彫られている。


「文献によるなら"囲みし四神はそのこうなる瞳で裏返る天乙てんおつにらむ。くなどの神にけがれを打ち払わし、ってこれをみそぎす"だったかな? 四神相応しじんそうおうの地になってるなら岩に対応しそうなのは玄武とか?」


 玄武に対応しているならここが北ということだからこのまま真っ直ぐ進めば村の中心に行き当たりそうだ。そんな勘じみた予測に身を任せて謎の大岩を背に進んだ。




 しばらくまっすぐ歩くと思った通りに人の住んでいたであろう痕跡こんせきへと行き当たるのだった。文献は本当だったんだ、と小躍りしながら道に生えた木立やシダをかき分け進むと広場がある。その中心には古びた石の祠だけがポツンと立っていた。

 村だったのだろうその場所は既にその家屋のほとんどが朽ち果て、石で作られた塀だけがそこに建物があったことを示しているかのようだ。


「ということはここが午鳴うまなき村か。江戸時代末期には記録から消えてたからもしかしてとは思ったけどこれは相当だね」


 まさかここまで村の残骸・・になっているとは思いもしなかった。

 こういう文献から消えてしまった村、みたいなところにフィールドワークをしたことがなかったから知らなかったけどもうちょっと建物の形跡があるものだと思っていた。


「これじゃあ、家屋に古文書の類が……みたいな話は夢のまた夢だなぁ」


 そう呟いた。まさにその時だった。

 がさがさがさ、と木々の間を誰かが潜る音が鳴り響く。遠くの茂みがさらさらと揺れ「すわ、クマでも出たか!?」なんてありもしないのに思わず見回してしまう。

 静寂。

 いくら辺りを見渡せど動物の影すら見えなかった。繰り返し胸が血液を送り出すのを感じながら自分には風でも吹いたのだろうと納得させる。この辺で熊が出るなんて話聞いたことがない。一つ深呼吸をして唯一この村に形を残した建物である祠へと近づいていく。

 全体が苔むしているとばかり思い込んでいた石造りの建物は近づいてみると石そのものも緑色をしていた。石には詳しくないけれど蛍石……は緑色でも透明だから違うか。どちらかというと翡翠とかキツネ石とかがこんな色をしてるだろうか。それより少し白っぽいから別の石かもしれない。

 扉の部分以外は一つの岩から削り出しているらしく扉以外に少しの隙間もない。扉の上部には来るときに見かけた岩と同じ妙な彫り込みがある。

 扉を探ってみると観音開きだったようで、端の部分を押すとガザガザ音を立てて軽く開いた。苔で動きづらくなっているのだろうか、力を入れても手を入れられる程度の幅だけ開いてそれ以上はいくら引っ張っても押してもビクともしなくなってしまった。仕方なく隙間から覗くと、


「——うわぁっ!?」


 中にはきちきちと走り回る長虫ながむしの隙間を埋めるように螻蟻ろうぎうごめき、ザーザー音を立てて羽虫が明かり目掛けて飛んできた。飛んできた青翅あおばを思わずバタバタと払い、おぞましいばかりのその音、その感触に意味もなく足踏みをしてしまう。

 しかし、それでも視線は僅かに開いた深淵しんえんに囚われていた。暗闇の中瞳もなく見つめ返していたのは肉も臓も欠けた人型だ。人型の足元から百合のように白いその骨を辿っていくとチリチリとした恐怖が背筋を上っていく。関節に覗く蟲達を視界の外に追い出してレールに沿うように頭が上がっていく。視線を下げようとしても下げられない。バクバクという動悸を抑えながら顔が上がるに従うとその先には、そこにあるべき頭蓋が存在しなかった。

 カチリ、という音がして頭の中でピースが嵌まった。自分の目の前の光景と伝承が繋がっている。

 ——これがきっと裏返る天乙なのだ。

 哄笑が口端くちはから漏れ出かけ、喉の奥に引っ込んだ。

 理由はなんてこともない。それを邪魔する何かが起きたからだ。


「おい、根暗野郎ぉ……」


 それ・・はガサガサという草葉の擦れる音と共にやってきた。声は低く、野太い。言い種から察するに先ほどの男だ。名前を何某なにがしという彼だ。

 ふと彼のつむぐ声に得体も知れないゴポゴポという音が混じっているように感じた。それはまるで粘つく液体から気泡があふれるようで、怪鳥の鳴き声を真似た水笛でも聞かされているようにも感じられる。きちきち、ぎちぎちと虫のざわめきだけが頭を占める。虫の知らせ、というには直接的なその嫌な感覚へ従うようにゆっくりゆっくりと首を後ろへと回して、


「なんでお前は、——」


 半袖の肩口から僕の首へ向かって伸びる筋肉質な腕、胸筋が膨らむ綿の服は異様に黒ずみ、声を放ち行き来する喉仏すらそのままに、

 その頭部がどこにも見当たらなかった。


「……ひっ、ひゃ、うああああぁぁっっ!?」


 絶叫。

 ついで衝撃。

 喉元のどもとから椎骨ついこつへと痛みが抜けて、顔面が全体を圧迫されるかのように引きつっていく。首を絞められているのだと気づいたのは数瞬をてから、首を圧迫するそれを自らの左手で掴んでからだ。

 僕の頭をそれこそくびり落とさんとばかりに掴むその手は肉深くへと抉りこまれ、汗かそれとも別の何かなのか胸元はぬるく濡れそぼっていた。

 奴の親指を外そうと本能で二本の指を指間部しかんぶへと滑り込ませるが、どれだけの力を込めているのかピクリとも動かない。

 本能は「死ヌゾ、死ヌゾ」とくすくすあざわらい、理性はひたすらにエマージェンシーを繰り返す。本能と理性の隙間で僕はいつの間にか右手を乱暴に振り回していた。

 護身術のプロとかの武道を極めた人みたいに強ければほかにもクレバーなやり方があったのかもしれないけれど僕にできたのはそんなあまりにも幼稚な反撃だ。

 でも、それが良かった。

 偶然にも手首か何かに当たった僕の右手は彼の手を緩めることに成功した。多分、神経か何かにダメージを与えたのだろう。

 そんなことを考えている暇もなく、緩まった隙間から左手を差し込み彼を引きはがす。そして、体当たりを食らわせ彼の体をわずかによろめかせると石の祠を背に僕は走り始めた。目的地などなかった。

 しばらく走るとその進行方向に人影があった。僕は安堵してその人物の服を見る。クラシカルなジーンズに赤い麻のシャツ。

 こだわりぬかれたジーンズは本人曰く「いい感じのダメージが入ってる」らしいそれは泥か何かで汚れていた。でも安心したよ、この服のセンスは絶対にカミトだ。

 ははは、と乾いた笑いをこぼしながらカミトへ話しかける。


「そっか、お前は無事だったか。気を付けてくれ、頭のないバケモノがいたんだ。この近くにもまだいるかもしれ、」


 そこで僕は妙だと思った。

 朝に出会ったカミト。その服装は果たして赤いシャツだったろうか。

 恐る恐る僕はカミトのほうを見て顔をだんだんと上げていく。黒いシミのダメージが入ったジーンズ、赤黒い麻のシャツを抜け、その先には角ばった鎖骨に、細いが筋張った首があり、そして、その先には、


 その先には何もなかった。


「ひぃっ!?」


 僕は後ずさった。

 後ずさって、体を翻し走り出した。

 訳が分からなかった。「なんで頭のない人間が生きているのだ」とか「なんでカミトも頭がないんだ」とか「僕がこんな目にどうして合うんだ」とか「大体、なんで僕以外いないはずの場所にカミトやほかのヤツがいるんだ」とか。色んな疑問が湧いてはつかみ取る前にどこかへと消えてしまう。

 足は繰り返し、腐葉土を踏んでは離れる。時折、木の根や少し大きな石に足を取られるが奇跡的なほどに速いスピードで僕は森の中を踏破していた。

 やがて見えてきたのは崖だった。正確には向かう先に地面がなくて崖だということが分かった。後ろからは複数の足音が迫ってきている。奴らが未だに追ってきているのだろう。

 崖に背を向け首元がずっと滴っている何かに手を這わせる。ねとりとした赤い液体は胸元まで染めていた。


「ははっ。結構出血してるし、このままじゃ死んじゃうかもな」


 キョロキョロと見回しながら気配を探る。ジャクリジャクリという音がするたび恐怖に震えてしまう。視界は悪い。あちこちが手入れのされていない枝葉にさえぎられていて見えなくなっている。喉の傷だけでなく全身に枝による切り傷やみみずばれができている。足は運動不足が祟ったのかもう動きそうもない。

 万事休す。

 そう思ったときにガジャガジャガジャと茂みが揺れる音。方向は、後ろ以外の全方向。茂みから見える奇妙な人影は四つを数えていた。

 思わずたたらを踏む。

 そう、後ろに地面なんてないのに。

 空を切る右足、軸足から離れていく重心。背後にはもちろん受け止めるものなんて何もなく。

 ドスン、地面にぶつかる衝撃で肺から空気が抜けていく。視界の先には覗き込む貌のないバケモノたち。逃げ場を探してうつぶせになり、地面を掻くように動かした。

 そこは地面のようではあったが実際にはそうではなかった。

 大きな岩。その表面には目のような紋。そこに手をついた刹那、その中心をなぞるように滑っていき、体は倒れこむ。遅れて凄まじい痛みが脳を埋めていく。

 痛みの片隅で冷静な思考が芽生える。

 あの高さから落ちれば骨の一本や二本折れててもおかしくはあるまい。なんせ背丈の二、三倍はある高さだ。

 意識がさらに白い混濁へと飲み込まれていく。痛みが許容範囲を超えてしまったのか、ほかの原因があったのか僕にはわからない。

 ただ視界には、燃える瞳、落ちる怪物たち、傾ぐ枝葉だけが映っていたのを覚える。

 体が再び空に投げ出され完全に意識を焼失する刹那、僕は耳元に祖父の声を聴いていた。


「――アキラ、神さんのいるとこは大事にしねぇといけねぇ」


 ただその声は、今まで思っていたものと違うものだった。

 ぐじゅぐじゅと血が喉に注がれながらしゃべるような、奇妙で耳障りな音響。ゴポゴポと喉を鳴らしながら叫ぶようなその忠告はどうしてか、意識をホワイトアウトさせる僕がかつて失ったものを取り戻したという確信を与えるのだった。

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