相貌

深恵 遊子

神居はす御処

 生きていくコツは目をそらすことだ。嫌なことから、あるいは汚いことから目をそらして日々を過ごす。それをするだけで心が死んでしまうことは中々になくなるものだ。

 見えなければ怖がる必要もないし、感情の揺れも何もない。そこにあるのは無だけだと知っている。

 こんな生活には友達も恋人も必要ない。社会不適合者だと謗られようが生きるだけならこれで十分だ。この生き方に必要なのは逃げ続けることだけなのだから。過去から未来から、今からですら逃げ続けるだけでいいのだ。

 僕がこうやって生きるようになったのはいつからだったろうか。少なくとも小学生の時にはこんなことをしていなかったような気がする。

 何気なしに思っていると、するりと夏の日の思い出が蘇ってくる。

 確かその日は祖父と近くの神社に行って、神社で何かのいたずらをして怒られていたのだったか。


「アキラ、神さんのいるとこは大事にしねぇといけねぇ」


 そう諭した祖父の顔を僕はもう、覚えていない。死に顔すら思い出せない。薄情なものだ。

 今にして思えば、その祖父の言葉を僕はもっと心に刻んでおけばよかったのだ。




 大学に入って僕は歴史研究会というサークルに入った。大学に文学部はなかったけれど代わりにここで僕は好きなだけ神話について調べることにしたのだ。幸いにも研究会が活動の拠点としている部屋には歴代の先輩方が地元の伝承をまとめた会誌や社会学の名著なんかも揃っていた。

 昔から僕は"神"という存在に興味を持っていた。現代日本においてその実在は信じられておらず、自らを無宗教と名乗る人物も多い。実のところ僕もその一人だ。だから、というべきか否か定かではないが、いつのまにかそのよくわからないシステムに並々ならない魅力を感じていたのだ。


本代もとしろくん、ちょっといいかしら」


 いつものように放課に研究会の通称「部室」でキーボードを叩いていると後ろから声が降ってきた。言葉の主は歴史研究会の紅一点ことナギサさんだ。それがかばねなのか名前なのか聞いたこともない。噂ではとびきりの美人だという。まあ、僕は知ったことじゃないけれど。

 僕が知ってるのは彼女の首から下の話だけだ。よくふりふりとした服を身につけているから心の中ではしばしばレースの人とか呼んでいた。


「何かな?」

「明日から研究会のみんなで県北の神社に行く話があるんだけど一緒にどうかなって」

「悪いけど、」


 いつも通り首から上には目線を逸らしたまま立ち上がって歩き出す。そんな面倒なイベントごめんだから断らせてもらおう。

 そんな甘い考えは、


「—— 一生のお願い! アキラくんにしか頼めないの!」


という言葉と共に無理矢理に失われた。

 なぜか、って。彼女が僕の視界にその相貌を・・・・・無理矢理に・・・・・押し込んだから・・・・・・・だ。

 瞬間に襲う吐き気と浮遊感。並ぶまなこ、のっぺりと盛り上がった中心の丘陵、空いたいくつもの穴。それら全てが気持ち悪い。背筋に虫が何匹も這い回り、蛆虫が肌の裏を潜っているよう。耳の奥では無数の羽虫が忙しなく動き続けている。


「わかった。ナギサさん、わかったから」


 視線を逸らそうにもそらせない。ガラスを引っ掻く音のように、スポンジの無数に空いた穴を眺めるように、あるいは蠢く岩の裏のテントウムシを見たときのように、毛穴が開き痒さだけが体を支配する。

 ぬめりと光を写す白黒の球が、無数に生えた黒い集合が骨を感じさせるその肌の白が、僕の体をひどく引っ掻き回していた。


「頼むから、僕の視界に二度とその顔を入れないでくれ」


 やっとの事で僕は彼女がいつの間にか掴んでいた両手を僕の腕から引き剥がし、後ろに倒れこむようにして無理矢理に視界を彼女から外した。

 昔からこうなのだ。人の顔を見るとこのようになることがある。理由はわからない。こうならない相手も結構いるのだがここ最近は誰の顔を見てもこうなってしまう。だから、僕は目を伏せて人の顔を見ずに生きることにしたのだ。人の顔を見ることから逃げて生きているのだ。

 一瞬の静寂を切り裂いて僕は口を開く。


「その研究会の旅行には参加するよ。どうせレンタカーのカンパとかが目的だろう?」

「うん、それもあるけど、」

「先月、会誌に載せたレポートの実地調査もしたい。研究会の活動は二の次になるけどそれでもよければ、ね」


 返事は聞かずに僕は扉を開けた。一瞬聞こえた声がやけに湿っていたように感じたが、きっと気のせいだろう。部室を出た時、会の同期と先輩がまさに入ろうとしていた。


「よう! アキラ。今帰りか?」

「まあ、そんなところです」

「先月の記事は良かったな! お前、実は民話とかもいける口だったんだな。言えよこの野郎!」


 話しかけてきたのはカミトという同期の男。ジーパンを好んでおり、ジーパン以外を履いているところを見たことがない。地方の民話を集めるのを趣味だとかで地方のじいさんばあさん、はては海外にまで話を聞きに行くとか。ホント変な男だ。この前もどこか遠くの民話を聞きに行ったとかで明らかにこの国のものではないお土産をもらった。


「まさか地方民話に登場する怪異を神と捉えて信仰がどのようなものであったかを考察するとは思わなかった。いい読み物だったって」


 この男はすぐに人のことを褒めるからやりづらい。

 と、そこで横から違う声が飛ぶ。


「ああ、確かにあれは面白かったな。俺が書いた西洋史総覧の名文には一段と劣るがな」


 そう語るのはイギリスを中心とした西洋の近代から近現代までについて調査することを至上の悦楽としているという噂の、本来は理系専門のこれまた奇特な男。いつも副会長と呼ばれているので名前は知らない。

 僕は二人の間で会話が始まったのを感じて会釈だけして歩き出す。外はにわかに雨が降り始めていた。夕立には少し早いが、濡れて帰るしかないだろう。折りたたみ傘なんて気が利いたもの僕は持ち合わせてないんだから。

 夜、学校から配布されているメールアドレスにナギサさんからメールが来ていた。集合場所と時間、参加費などについて書かれているメールには最後に「ごめんなさい」と一言だけ追記されていた。




 出立の朝、夏の暑さにうだりながら待ち合わせ場所についてみるともう会のうち五名、つまりは僕以外のメンツが既に揃っていた。


「全員揃ったな。チッ、置いていけば良かったんだこんなやつ」


 誰かがそう言い放つ。僕の知らないその誰かはドスドスと運転席の方に歩き出す。運転手として連れてこられた幽霊会員の誰かだろうか。そういえば、僕以外の研究会メンツで呑み会を開いていると聞いたことがある。そちらにだけ参加してる人なのだろうか。


「時間は集合時間丁度に着いていると思いますが、僕に何か瑕疵がありますか」


 言葉は丁寧に、かつ刺々しさは最大限に。それでいていつ殴られてもいいように身を固める。こんなことは何度となくあった。相手の勘気にこちらは何もしていないのに触れる、なんてこと。彼はこちらの言葉に苛立たしげに立ち止まりこちらを振り向く。

 無言が漂っている。彼が単に僕のことを嫌っている人物であるにしても本当に変な空気だ。そんな時間を過ごしていると、


「はいはい、やめやめ」

「全員揃ったことだし、乗り込もうぜ。ほら、アキラも」


 そんな言葉とともに僕の視界は白く染まった。

 副会長とカミトが僕と名も知らない彼との間に入り込んだのだ。その手はドードーと落ち着かせるような手つきである。

 彼らの様子に彼は何かを諦めたように運転席へ乗り込んだ。ダンッと乱暴に閉められた扉が痛々しかった。他の人たちもどんどんと乗り込んでいく。

 心の奥で「何かやっちゃったんだろうか」と首をひねりながらカミトの後ろに続いて真っ黒なワンボックスカーに乗り込んでいく。最後に乗り込むのは僕だ。

 僕が階段に足をかけ二歩目を踏み出した時急に車は走り出す。慣性に突き飛ばされ、僕は尻餅をつくようにシートに腰を下ろした。遅れてオートスライドドアがピーピーと甲高い音を鳴らしながらしまっていく。その機械音の中にチッと誰かの舌打ちが混じった。

 どうにも今回の調査は一筋縄では行かなそうだ。




 今回の目的地は阿須神社というローカルでは有名な神社だ。上社には天沼矛だと伝わる矛が御神体の一つとして祀られているなんて話もある。もっともこんな場所にそんな大層なものは眠ってないだろうから別の何かが同一視されるようになったとかだろう。

 杉の木が豊富な谷を越え、大きな岩がゴロゴロと転がる沢を抜け、妙に木のない連なる丘を通り、そこには青々としたおおきな山とその手前に綺麗に整備された神社があった。遠くの方に造りの似たちょっと古びた建物の屋根が見えている。確か下社の方だけ五年ほど前に老朽化による倒壊で建て替えられたのだったか。宝物殿からいくつか盗難があったとかで大きなニュースになったのを覚えている。

 車が駐車場に止まると目の前には八幡造りの社殿がある。石造りの鳥居が僕たちを出迎え石畳の脇には玉砂利が敷かれていた。それらの手前には土産物屋なんかも連なっているがそれらには一瞥もせず僕は真っ直ぐに上社に続く参道へと足を向けた。

 僕が目的としていたのはその先神社にご禁足地として指定されている山々だ。だが、何も山の木々なんかに興味があるというわけではない。

 複数の文献にその山の奥地に大昔村があったらしいことが書かれていた。その村に伝わる神と周辺の農村に伝わる妖怪変化が非常に多くの共通点を持っていたのだ。僕の興味を引いたのはその奇妙な一致だ。


 曰く、かおを持たなかった。


 いくつかの文献をあたったがそのいずれもその一点において同様であった。一番の奇妙はどうにも信仰しているその村でも「顔がない」という事はその神の特徴として伝えられていたようなのだ。

 顔がないという事はそれすなわち一般から外れたものだ。奇異であるということは忌避するものにはなれど聖の側に振り切って信仰されることがあるものとは思えない。どちらかというと呪いや穢れといったものに近く、周辺の村で扱われているように怪異や鬼という表現になりやすいものだろう。


「そういえば、啓典の神は姿がないんだったか」


 といっても姿がないからこそ世の遍く全ての近くにあるものだという話もある。それは超常のものとしてわかりやすいものだ。姿がないからこそいつも僕らは神のそばにある。それは十分に信仰に値する。だって、その存在は僕らに安心を与えてくれるのだからそれはシステムとして成り立っている。ということは姿がないということと顔がないというのはまた違った話なのだろう。


「——おい、根暗野郎」


 気がつくと僕は上社の目の前にたどり着いていた。そんな僕に後ろから声をかけたのは先程の訳のわからないことで因縁をつけてきた彼だった。


「えっと、僕に何か?」

「僕に何か、じゃねえぞ。すっとぼけやがってよ」


 ドスドスと足音荒くこちらに近づいてくる。彼は近づくと半袖から伸びる筋肉質な腕のその先で握り拳を作っている。何か許せないものがあるかのように。


「お前がサトミのやつ泣かせたのは割れてんだよ」

「いや、誰」

「テメェッ!」


 訳がわからない。サトミなんて人のことを僕は知らない。この人は何をこんなに怒っているんだろう。

 彼は僕の襟元を掴み上げると、


「謝れよ」


 ただそれだけを言った。僕は尚も彼の顔こら目を逸らしたまま、彼の言葉を黙殺する。目線の先で妙に筋張った喉の真ん中で何度か喉仏が行き来していた。何のために謝るのか語られない以上こうしているしかあるまい。

 これ以上僕から反応を引き出せないと察したのか彼はそのまま僕を突き飛ばし。参道を降り始めた。


「クズが」


 そう言い残していった。まるで末弟の神のような人だな、なんて思いながら僕は土埃を払う。

 目的の場所はまだ先だ。

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