第9話 感情を共有するということ
どっと疲労感が襲ってきて、膝から力が抜けた。
意志のある、生きているものに作用する能力というのは、ひどく消耗する。精神的な浪費が大きい。それも、あんなたちの悪いあやかしなら尚更だった。
地面に崩れ落ちそうになったわたしを、岡崎さんが慌てて支えてくれる。
「すみません、腕、痛くなかったですか」
岡崎さんは、すっかりいつも通りだった。
わたしのほうが、天邪鬼の影響をうけている。この間は平気だったのに。今日は正面から張り合ったせいだろうか。大丈夫だと言いたいのに、言葉が出ない。
「わたしの異能力が効かないくせに、他の輩の言いなりになるなんて、おかしいです」
感情を抑えきれない。こんなこと、いけないのに。
「輩って」
困ったような声がおりてくる。
「そんなの、許せない。わたしのコンクラーが効かないくせに。よりにもよって、性悪の妖怪の言いなりになるなんて!」
暗い気持ちが抜けていかない。疲労のせいで、余計に悪感情を押さえ込む気力がわかなかった。
息が苦しい。
生きていてはいけない気がしてくる。このままだと、今度は周辺の人がわたしの異能力の影響をうける。せっかく天邪鬼が去ったのに。何も変わらない。
「ぼく、松下さんのテレパスきかないんですか」
岡崎さんは何故か困惑したような表情でわたしを見ている。
わたしは、大きく息をついた。これではいけない。また同じ事の繰り返しだ。なんとか抑えないと。
わたしは結局、とても意志が弱いんだと思う。我慢しているつもりで、抑制しているつもりで、ぜんぜん自制なんかできていない。
すぐに、カッとなって全部台無しにしてしまう。
――それが、分かっていたから。恐かったから。
大事な人であればあるほど、一線を引いてしまった。ぶつかって、台無しにして、相手を壊してしまうのが恐かった。心底嫌われてしまうのが恐かった。
自分を守りたかっただけだ。
三十歳になって、年を重ねていくうちに、もっとしっかりと立てるようになるかと思っていた。節目を超えて、さらに前進できるはずだと思っていた。
何も変わらない。お母さんを泣かせていた子供の頃と。少しも自分の力を制御できない。
「絶対にきかないとは言えないです」
彼の胸を押し戻す。岡崎さんから離れないと。
また何か引き起こす前に。
「わたしの影響を受けないで」
「どうしてですか?」
あっけらかんとして彼は言った。
「ぼく、松下さんのこと好きなんで、影響受けたいです」
思考が停止した。思いも寄らない言葉に、心の中でわだかまってぶつかり合ってぐちゃぐちゃになっていた感情が、ぴたりと止まった。
彼は言いつのる。
「一緒にいて楽しい気分になったり、好きな人が悲しんでるときに一緒に悲しんだり、何か問題あるんですか?」
「――はい?」
ぽかんとして見上げる。穏やかな顔が、真剣な眼差しでわたしを見ていた。目が合うと、珍しく苦笑する。
「いや、それないんじゃないですか。好きじゃない人と何回も二人で飲みに行ったりしないですし」
「飲み友達みたいな感覚かと」
「なんだか、この間そんなこと言っていたから嫌な予感がしたんですけど。松下さんはそうだったんですか?」
問われて、いや、と心の中で即答した。
――いや、確かに。そうではなかったけれども。
わたしは傷ついていて、ただ寄りかかる人がほしかっただけなのかもしれないし。
「楽なんです。あなたといると」
わたしの能力の影響を少しも受けない人。おそろしいほどに安定していて、大きな木のような人だった。
「ただ、楽なだけなんです。それだけです。甘えてるんです」
好意とかそういうものじゃないと思う。いや、好意はあるけれど。
焦がれるようなものじゃないと思う。
「それダメなんですか?」
きょとんとして彼は言う。
「一緒にいて居心地いいってことですよね。何か問題あります?」
それは、確かにそうかも知れない。
でも。
「ぼくはよく、いつもにこにもして、何考えてるか分からなくて気持ち悪いって言われるんです」
また唐突に、彼は言った。わたしは意表を突かれてばかりで、毒気を抜かれる。
「そんなこと」
「気持ち悪いんだそうですよ。この間、理想のパートナーの話しましたよね。ぼくは、空気みたいになりたいんです。あるのが当たり前で、お互い気負わずにいられて、でもいないと困るみたいな。そういう居心地の良さがいいんです」
でもね、と彼は少しいたずらっぽく笑う。
「この話の大事なところはね、意外と依存が高いということです。ほら、気持ち悪いでしょ。引きました?」
さっきのわたしの言葉をやりかえすように言って、彼は笑った。あっけらかんと。
――楽に、息が出来るということ。
そばに居ても気を張らず、自分の能力が影響を与えてしまうからと、怯えずにいられること。彼といるとそれが当たり前で、嬉しいと言うよりも、ホッとした。
わたしが何も言えずにいると、彼は言い募った。
「パートナーに甘えるの、問題あります? 甘えすぎて配慮に欠けるのはどうかと思いますけど、あなたはそんなことにならないでしょ。そんなことになるんだったら、もっと楽に生きてきてますよね」
彼の言葉は遠慮がない。
甘えてほしかった。頼ってほしかった。壁を感じた。今まで散々言われたことだった。
でもわたしが油断して気を許して、振り回すのが恐くて出来なかった。全部わたしの側の都合でしかなくて、色んな人を傷つけてきた。井内くんだって。
「でも、恐いんです」
慣れていないから。甘えることの楽さに甘えて、どんどん寄りかかってしまったらどうしよう。
慣れないことに、限度が分からなくなったら恐い。そうして、自分でも気付かないうちに、嫌なを思いをさせていたら恐い。知らないうちに嫌われていたら。
――この人を失ったら、恐い。
「わたしは、意志が弱いし、こんなんだから」
「そういうの、良くないですよ。なんでもかんでも自分のせいにするのも、自分を卑下するのも。それは、逃げてるだけです。甘えです」
楽さに甘えることを怯えていたわたしに、彼は思いも寄らぬ指摘をした。
「そいういうのは、あなたのことを好きな人のことも、おかしいつまらない人間だって言ってるようなものですよ。そういうの、ダメです」
何でも自罰的に自分が悪いと抱え込むのは、たしかに、人と向き合うよりも楽をしているのかもしれない。相手を切り捨てて、逃げることで、相手を傷つける。そんなに簡単に捨てても平気な人間だったのかと。
「そうやって、言ってくれますか?」
わたしは、うつむいたまま、言葉を落とした。
「わたしが甘えすぎて、ズブズブになって、迷惑かけたり嫌になったりしたら、結論出す前にそうやって言ってくれますか?」
ええ、と彼は破顔した。
「ぼくは言いなりにはなりませんよ。話し合いしましょう」
わたしの言いなりになんか、ならないだろう。彼は。わたしの
天邪鬼にだって振り回されなかったんだから。
いつの間にか、クラクションや怒鳴り声も聞こえなくなった。いつもの雑踏の中、ただ、サイレンの音が聞こえてくる。あれだけの騒ぎで、何もないなんてことある訳がなかった。
大きな事故に発展していなければいいけれど。
「とりあえずは、落ち着いてからにしましょうか。何か手助けできることがあるかもしれませんし。会社の様子も気になるので」
当たり前のように彼は言った。
「また、必ず、ご連絡しますから。これに懲りず、またうちの猫の話聞いてくれます?」
いつもと何ら変わらない、穏やかな表情で。
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