第7話 悪意なき害意 2

 ビルのエントランスから騒ぎが聞こえる。営業時間を終えて明かりを絞っている様子のフロアは、少しだけ薄暗い。ガラス張りの一階の、自動ドアの向こうには受付があって、いまは誰も受付にはいない。

 その奥から、エレベーターをおりてきた集団が大きな声で言い争っている。会社の中であげるような声じゃなかった。


 びっくりした岡崎さんが、駆けつけようとした。

 わたしは考えるよりも前に、彼の腕を引く。

「岡崎さん、ちょっと待ってください」

 あれは天邪鬼の仕業だ。あの人達は、岡崎さんをいいように遊ぶためだけに、操られてるだけだ。


「でも」

 自分の会社での騒ぎに、気が気でない様子だった。当然だ。放ってはおけない。――でも。

 後ろからも騒ぎが聞こえた。ガシャン、と大きな音がする。近くの歩道で自転車がひっくり返って、横に若者が倒れている。飛び起きた様子を見ると、大した怪我ではなさそうだったが。


「なんでわざわざ立ちふさがるんだよ!」

 怒声が響く。歩行者数名とつかみ合いになっていた。

「お前の方がよければいいだろ、危ねーじゃねーか!」

 そのすぐ近くで、女性の悲鳴が上がった。

「ひったくり!」

 走り去っていく男の後ろ姿が見える。それだけじゃない、あちらこちらで騒ぎが起きている。


「――一体・・・・・・」

 何事かと束の間気を取られた。

「あ、ちょっと」

 岡崎さんが声を上げる。視線を追って振り返ったときには、そこにいたはずの子供が駆けだしていく。――しまった、騒ぎに気を取られてるうちに。岡崎さんは子供の後ろを追いかけた。


「岡崎さん、待って!」

「子供ひとりで危ないから」

 言葉だけが戻ってきて、わたしも慌てて後を追う。ここにいてと言ったのに。わたしの異能力の影響をうけたはずなのに。


 異能力の影響を受けやすい人も受けにくい人もいる。特にわたしの異能力は、人の心に作用するものだから、ガードの硬い人も弱い人もいる。安定している人ほど、他人の言葉に振り回されにくいのと同じで、わたしの能力の影響は受けにくい。やっぱり彼にはきかない。

 いつもなら嬉しいことだったけど、今は困る。

 あれは子供じゃない。人間ですらない。それをどう説明したらいいものか。



「怒れ怒れ」

 天邪鬼は楽しそうに笑いながら、すぐそばの横断歩道をわたっていく。

 辺りはすでに暗くなっていて、歩行者側の信号の赤が夜空の下で強く光っている。車道の信号も赤信号に変わったところだった。


 このままだとまずい。わたしたちだけじゃない。周辺の人がみんな影響を受ける。今は揉め事ですんでいるけど、この後何が起きるか想像もしなくなかった。なんとかこいつを押さえ込まないと。


「あぶない!」

 岡崎さんが後を追いかけていく。

 子供は楽しそうに笑って、横断歩道で立ち止まる。わたしを見ていた。


「待って、岡崎さん、行ったら駄目です!」

 わたしは何とか彼に追いついて、腕を掴まえた。車道に踏み出す前に、強く引く。

 横断歩道の真ん中で立ち止まった子供に、苛立った車のクラクションが鳴り響く。


「連れ戻さないと!」

 焦った様子で岡崎さんはわたしを振り返る。

「行かない下さい。その子供は、人間じゃないんです。あなたに嫌がらせをしているんです!」

 苛立ちと怒りと、不穏な空気が辺りに満ちている。悲鳴と怒声とクラクションの大きな音が、余計に思考をかき乱す。

 もうためらっている場合ではなかった。


「変なこと言ってるのは分かってるんですが、本当です。あれは、天邪鬼です」

「それって、人の嫌がることとかやらかして意地悪する人のことですよね」

「それは、そういうあやかしに似ている人間のことです」


 天邪鬼は、煩悩を現す象徴として、仏像の足で踏みつけられている悪鬼だ。本当はどうしたいか、その人はどうすべきかを知っていながら、反対の行動を取らせる。

 人の心の奥で抱えている欲望を見つけて、悪事に走らせたりする。


「うちの会社、変なキャッチコピーでしょ。ああいう、人でないものに関わることも多い仕事なんです。岡崎さんも近頃周辺が奇妙だと言っていたでしょう。あいつの仕業なんです。前も見かけたって言ってましたよね。その後おかしなことがありませんでしたか」

 言い募るわたしに、腕を引っ張る岡崎さんの力が弱くなる。


「霊感とかそういう」

「ちょっと違うけど、そういうものだと思ってもらってもいいです。わたしは人の感情に影響を与えるテレパスなんです。その力をつかって仕事をしているんです」

 岡崎さんは、道路へ行こうとするのをやめた。足を止めて、振り返って、わたしを見た。


「ぼくにも何かしました?」

 面と向かって問われて、わたしは言葉に詰まった。

 答えられない。

 したかと言われれば、さっきやろうとした。うまくいかなかったから、してないと言えばしてないかもしれない。でも、無意識の力が働いてしまうことがどうしてもある。絶対に、誰にも何もしていないとは言えない。


 いつもの夢が脳裏によみがえる。リビングで泣いているお母さん。揉める大人達。

 そして目の前の騒ぎ。今のこれは、本当に天邪鬼が引き起こしたものなのか。わたしがやらかしていることなのか。


「――気持ち悪いですよね?」

 誤魔化して笑おうとした。けれど、うまくいかないのが、自分でも分かった。

 岡崎さんは、彼の腕を捕らえるわたしの腕を、逆に掴まえた。口を開く。


「オマエおかしい、変、キモチワルイ」

 彼が何か言う前に、唐突に、わたしのすぐそばで哄笑が沸き起こる。

 横断歩道に立ち止まっていたはずの子供は、いつの間にかわたしのすぐそばに立っていた。車道を、車が流れ出す。普通では考えられないような速度でスタートを切った。左折の車が、歩行者へクラクションを鳴らす。

 天邪鬼は、くるりとまわって、岡崎さんのそばに寄った。


「こいつ、普通じゃない。オマエに悪いこと起こそうとしてる。関わるとオマエも嫌な目に合うぞ」

 自分が岡崎さんに嫌がらせをしようと――まさに今しているのに。


「もう近寄れないようにしたほうがいいな」

 あっけらかんと、人でないものは言う。

「殺したほうがいいな」

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