第6話 悪意なき害意 1
オフィスビルが並ぶ一角だった。一階がガラス張りになったビルの前に、岡崎さんが立っていた。
駆け寄ろうとして――ドキリとする。
子供が彼のそばにいる。
グズグズと鼻を鳴らしながら、泣いていた。岡崎さんは困った様子で子供をなだめている。艶のあるきれいな髪の、ふっくらとした頬の愛らしい子供だった。
「岡崎さん!」
彼はあたりをみまわして、わたしと目が合った。嘘がばれて、気まずそうな顔をした。駆け寄ったわたしに苦笑する。
「先日はすみませんでした。なんであんなこと言ったのか、わからなくて。母が怪我をして、ちょっと動転してたのかもしれません」
「怪我されたんですか?」
乱れる呼吸をなんとか抑えながら、言葉を返す。それは、動転して当然の事態だ。
「大したことないんですけど、ご近所さんが言い争いをしていて、止めようと思って転んたとかで。その少し前から猫の気が立ってて、家のどこかに隠れて出てこないことが多くて心配で、今日は早く帰ろうかなと思っていたので」
言い訳のような口調だった。
それならそれで、はっきり言ってくれていいのに。それが本当で、わたしを避けているというわけでないのなら。――避けているのでも、はっきり言ってくれたほうがいいのに。
「どうして嘘ついたんです」
言うつもりなかったのに、言葉がついて出た。知らず責めるような口調になってしまった。
さっきまで泣いていた子供が、あどけない顔でわたしを見上げた。それが余計に、嘲られてるような気持ちになる。煽られている感じがする。
岡崎さんは、珍しく慌てた様子で口早に言った。
「ぼくのまわり、最近変なことが多くて。それに、最近自分の感情の自制がきかないことがたまにあって。近づくと危ないかなと。松下さんを傷つけたくなかったから」
「ちゃんと、話してくれればよかったのに」
「なんというか、説明が難しくて」
そうだろう。それは、よく分かる。
いつもわたしに対して、まわりの人が抱いているのは、こういう気持ちなんだろう。
さっきの栄くんだって。今更ながら自分に降りかかって、どれだけ不安にさせていたか思い知る。黙って、ただ距離を置かれるのはとても寂しい。
だけど、岡崎さんの、説明しがたい気持ちもよく分かる。
「この子は?」
「実は先日も、交差点で見かけた子なんです。どうやら、今日は親御さんとはぐれたみたいで」
岡崎さんは子供の前に腰を落とす。しゃがむようにして、子供と目線をあわせて、穏やかに言った。
「駅にいけば交番があるから、おまわりさんに聞いてみようか」
子供はあどけない表情で彼を見た。それから再び、わたしを見る。
切りそろえられた前髪の下で、唇が釣り上がる。
――すう、と感情の波が引いた。
「岡崎さん、ちょっといいですか。わたしこの子に用があって」
「あ、なんだ。お知り合いですか?」
「そういうわけでもないんですが。――仕事柄、役に立てるかも」
ああ、と岡崎さんは納得した様子で立ち上がった。
調査会社だからと言って、迷子のことは警察よりノウハウがあるわけでも、わたしの異能力が役に立つわけでもないのだけど。本来なら栄くんの出番だ。
でも、これは普通の子供じゃない。
「ここにいてくださいね」
目を覗き込んで、わたしはしっかりと岡崎さんに言った。岡崎さんは少し表情に疑問符をうかべながら、素直に「はい」と頷く。
わたしはさりげなく、子供を連れて岡崎さんから少し離れる。
「君は何」
少し声を落として、先日と同じ問いをぶつける。
「オマエこそなんだ」
あどけなかった子供の表情が一変した。にい、と笑う。口から牙がこぼれる。
「わたしは、普通の人間。君が文車妖妃をそそのかしたのか」
「人間だって」
子供はケタケタと笑い出した。耳障りな声だった。通りすがりの人が振り返る。
「オマエも、オレと同じくせに。デンシャのエキで、オマエのことを見た」
それは、わたしが言おうとしたことだった。お互いに気がついて、何か引っかかっていたということなのか。
「デンシャのエキは人間がいっぱいいておもしろい。ちょっとつついてやるだけで、すぐみんな大騒ぎするし」
「まさか、この間の痴漢も」
「アイツはもともと、人を困らせてやりたくてたまらなかったんだよ。カイシャでもイエでも、バカにされて、ずっとずっとガマンしてたんだよ。あの弱々しいオンナを見て、いっつもいっつも、めちゃくちゃにしてやりたいって思ってたんだよ。一生懸命ガマンしてたけど。ちょっとつついてやったら、大騒ぎになって、楽しかったなあ」
無邪気に笑いながら、子供は言った。当然ながら、悪気なんてまったくない。それが心底、気味が悪かった。
「悪質すぎる」
思うだけのことと、それを口にすることと、さらに行動することは、まったく違う。
誰だって心の内側に、吐露できないようなものを抱えていて、それをなだめながら生きている。
「怒ってるのか」
ケタケタと笑う。
「オマエだって同じのくせに」
「同じじゃない。わたしは人間だし、おまえは人間じゃない」
そもそも。存在そのものがちがう。だから、思考が違う。
「わたしは、おもしろがって異能力を使ったりしない」
「オモシロくてもオモシロくなくても、同じだろ」
その言葉が、心に重くのしかかった。わたしはとにかくそれを振り払う。今直視したらいけない。ひきずられる。
「どうして岡崎さんに近づいたの」
「アイツ、オモシロい。アイツ、どんなに反対のことさせようとしても、なかなか言うこときかないし。オレも意地になってるトコあるな。まわりで色々ヤラかしても、しぶとい」
子供は目を見開いて、ウキウキと言った。
「スキな相手のこと、意地悪したら楽しいだろうなあ。きっと、後でいっぱい苦しむんだろうなあ。ヤッちゃいけないこと、やりたくないことさせるの、楽しいよなあ」
こいつは、そういう生き物だ。
人でないものに人の理屈は通じない。それは分かっていても、ひどく腹が立った。
文車妖妃は小鬼、と言った。人がやりたいのとは反対のことを、やってはいけないことをさせるあやかし。
「お前、
子供はただ、ケタケタと嗤った。
何をするつもりなのか。何をさせようとしているのか。その表情に、言葉に、ただただ悪寒がはしる。
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