第5話 無邪気の悪意

 信号が青に変わって、また人の群れが動いていく。束の間人がまばらになった歩道で、見慣れた人の姿が見えた。背が高く、人より頭ひとつ抜けていてすぐにわかる。


「岡崎さん!?」

 ここは彼と初めて会った交差点だった。通りかかっても不思議はない。

 栄くんが、えっ、と声を上げて振り返る。岡崎さんは、信号も人波も目に入らない様子でたたずんでいる。この間のように――いや。なんだかおかしい。


 もぐもぐと口を動かしている。目が合うと、しまった、という顔をした。


 声を上げる間もない。

 岡崎さんはくるりと背を向ける。わたしは考えるよりも前に駆けだした。それよりも先に、栄くんがまた猛ダッシュをした。ロケットスタートで歩道の人をすりぬけて、岡崎さんに向けて突進する。


「おい、お前!」

 半ば体当たりするように腕をひっつかんだ。

「お前、こんなとこで何やってる!」

 強引に歩道の端へ連れて行くのを、わたしも人をすり抜けながらなんとか追いかける。


「うるさい、離せ離せ」

 岡崎さんは栄くんに引っ張られながら、手足をジタバタさせた。近くのビルの通用口の、目立たないところへ辿り着いたあたりで、その姿がぼやけた。


 白い布を頭からかぶった、白いマキシワンピースの少女が姿を現す。やっぱり。

 ――文車妖妃ふぐるまようひ


「もしかして今、彼からのメッセージを食べた?」

 少女は栄くんに腕を掴まれたまま、むすっとした顔でわたしを睨みつけて応えない。わたしはさすがにイラだって、問い詰めた。


「わたしからのメッセージも時々食べてた?」

「お前が飯場を荒らしたんだから、お前のを食って何が悪い。お前のメッセージ、少し色が出てきてうまくなってきた。苦悩のいい出汁がでて、そこに味が乗ってきて、いい感じで旨みたっぷり」


 文車妖妃に悪気はない。

 いや、あるかもしれない。わたしに対しては多分ある。

 彼女のお気に入りの餌場を排除して嫌がらせされたと思っているなら。それに彼女が文を食べるのは悪いことではない。

 ないのは分かってるんだけど。なんて間の悪い。


「今、何を食べたの。どういうメッセージだったか分かるでしょ」

 知れず語気が荒くなる。

 文車妖妃は口を引き結んだ。教えてやるもんか、と全身で言っている。


「答えて。時間がもったいない」

 あえて異能力をつかうまでもなかった。なんとか感情を抑えようとしても、苛立ちで無意識の力が働いてしまう。

 文車妖妃の表情が落ち着かなくなる。


「お前、嫌なやつ」

「知ってる。いいから、教えなさい」

 文車妖妃は小さくなりながら、白い布の下からわたしをうかがい見た。怯えた様子で瞬きしながら、唇を開く。


「先日は、せっかくお電話いただいたのに、失礼な態度をとってすみませんでした。近頃忙しいので、また落ち着いたら飲みに行きましょう」

 少女の声で、彼からのメッセージを読み上げる。


 普通だった。あまりにも普通だった。

 それが余計におかしい。違和感しかない。

 岡崎さんは、不穏と平常を行ったり来たりしている。最後に会ったときもなんとなくそうだった。その振り幅が大きく顕著になっている気がする。


「これ、今来たもの? どこから送信されたかわかる? 家の? 会社?」

「そんなの知らない」

 文車妖妃は頬をふくらませる。その態度に、苛立ちが募る。


「近くか遠くかくらいわかるでしょう」

「――近くだ」

「どっちの方角?」

 文車妖妃は、全身でわたしを嫌がる空気を出しながら、虚空を指さした。

 駅とは逆の方向。まだ会社にいるようだった。


 文車妖妃は、頭からかぶった布を掴んで顔を隠すようにしながら、ブツブツとつぶやく。


「わたしは悪くない。お前のメッセージ食べるとどんどんうまくなるぞってあやつが言うから張っていただけだ」

 心の奥に、暗いものが湧いてくる。文車妖妃が、また怯えた顔でわたしを見た。


 ――だめだ、抑えないと。また無意識の力が働いてしまう。

 通り過ぎる人たちが、チラチラとこちらを見る。スーツの大人が、少女を問い詰めているからというだけではないだろう。帰宅の人が増える時間だというのに、歩道を行く人達は、わたしを遠巻きにしている。

 わたしは大きく深呼吸してから、文車妖妃に問うた。


「誰に言われたの」

「小鬼だ」

 あの子供か。確証も何もなかったが、そうとしか思えなかった。人間にしか見えなくても、角がなくても、変化しているだけの場合もある。


「栄くん。つきあってくれてありがとう。用事が出来たから、解散しよう。お礼はまた別の日に、必ず」

 文車妖妃の腕を掴んだままの栄くんに声をかける。

 栄くんは少女の隣で、同じような表情をしていた。怯えと苛立ちの混じった顔でわたしを見て、目が合うと、ハッとしたようだった。


 悔しそうにうなりながら、文車妖妃を離して、髪をかきむしった。きれいにセットされていた髪がボサボサになる。

「何かあったら、連絡してくださいよ。つか、何かなくてもちょっとでも変だなと思ったら、すぐ、絶対! しないんでしょうけど!」

「ありがとう。覚えておく」


 言い置いて、わたしは駆けだした。拒絶しないでいてくれるのが、本当にありがたかった。



 手早くスマートフォンを操作して、岡崎さんに電話をかけた。でないだろうと思っていたけれど、数秒待つまでもなく、「はい」と穏やかな声が耳朶に忍び込んでくる。街のざわめきとは反対に、とても落ち着いた声だった。


「急にすみません。実は、仕事の都合で、岡崎さんの会社の近くにいるんです。もし良かったら、ご飯でも、食べて帰らないかなと思って、お電話してみたんですが」

「走ってます?」

 呼吸が乱れているわたしに、笑い含みの声が言った。いたずらっぽい表情が思い浮かぶ。やっぱり今日はいつも通りだ。


「分かりますか? ちょっと急いでいて」

 再び小さく笑う声がする。それから、申し訳なさそうに彼は言った。

「せっかくお電話いただいたのにすみません、今日はもう帰宅したんです。また誘ってください」


 ――嘘だ。

 文車妖妃は近くだと言った。わたしの異能力の影響下で、嘘をつくはずがない。彼は電車通勤をしているようだったし、このあたりの家ではないはずだった。

 明らかに、わたしを近づけないようにしている。


 だんだん岡崎さんに対しても腹がたってきた。

 何かあるなら、相談してくれてもいいんじゃないのか。栄くんに何も言えなかったわたしが思うのもおかしいかもしれないけど、水くさいにもほどがあるんじゃないのか。


 地図アプリに岡崎さんの会社の住所を入力する。もうすぐ近くまで来ていた。

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