第2話 踏み出せない距離
数日後、仕事を終えて、わたしは待ち合わせ場所に向かっていた。
夕闇の雑踏の中を流れるように歩いて行く。
いつかの交差点で、信号待ちの人の群れの中に、見慣れた後ろ姿を見つけた。すらりと背が高くて、人混みよりも頭一つ大きくて、すぐ分かる。
歩行者側の信号が青に変わる。わだかまっていた人の群れが、一斉に歩き出す。わたしはその流れに乗りながら、見つけた背中に近づいていった。
彼は信号が青になっているのに、ぼんやりと立っている。
「岡崎さん」
目がさまよって、呼びかけた相手を探しているようだった。わたしは笑いながら、たどりついたその背中をポンと叩いた。
「奇遇ですね。待ち合わせの前に会うなんて」
「ああ、松下さん」
岡崎さんは、わたしを見て穏やかに笑った。
待ち合わせ場所の前に会うと、なんとなく嬉しい反面、先日のことを思い出してしまう。誕生日、井内くんとの待ち合わせの前にあったことを。
ここは岡崎さんと初めて出会った交差点だった。余計に符号が揃ってしまう。
だけど彼は穏やかに笑う。
「奇遇ですね。これはもはや運命かも知れませんね」
と、軽くおどけて応えた。
「信号、青になってましたよ。何かありました?」
「ああ、ちょっとぼんやりしていて」
青信号が点滅して、周りの人達が慌てて駆けて横断歩道を渡っていく。それを横目に、わたしは彼を見上げた。
「大丈夫ですか? どこか具合でも?」
疲れているんだろうか。表に出さない彼にしてはめずらしい。
彼は少し困ったように笑った。それから、逡巡するように目をそらす。夕闇に陰って表情が読みにくい。信号が変わって、目の前を車が流れ出した。
「あとで話そうか迷っていたんですが。あの、調査の依頼ってどうやったらできますか? 個人でも簡単にできるんでしょうか」
思いも寄らない申し出だった。驚いて、でもわたしはなるべく大げさにならないように言った。
「何か困ってるんですか?」
「ぼくじゃないんですけど。最近、職場がなんか変で」
「どうぞ、「お気軽にご相談を」が我が社のモットーなので、たいしたことないように思えることでも、ご相談いただいて大丈夫ですよ。ご依頼なら、メールとか直接会社にきていただくとかで、詳しくお話を伺ってから、契約という流れになりますが。――個人的にでも、ご相談に乗りますよ」
「いやでも、それは、迷惑じゃないですか」
「先日わたしの相談にのってもらったじゃないですか。お返しです」
最近少し飲みに行ったりするようになった間柄だし、気軽に悩みを話すのにはまだためらわれるような、微妙な関係だと思ったのだろうか。それは少し寂しいけれど。
もしかしたらそうではなくて――もっと、人を巻き込むのにためらわれるような事なのだろうか。
ただ単に、知り合いに調査会社の人間がいるから、聞いてみようか、相談してみようかと思っただけなのか。それとも、あえてフェノミナンリサーチに頼んでみようと思ったのか。
――奇妙な物音や、不審な人影に悩んでいませんか? の胡散臭いキャッチコピーの。
「会社にお邪魔するなら、会社の方に話を通していただくか、会社側から依頼をいただかないといけなくなるので、ちょっと話が大きくなってしまうかも知れませんが」
「そうですよね」
うちの会社は、普通に見て変な会社だが、警察の捜査に協力をすることがあるように、実際には企業同士でつながっていることもある。
「もしかしたら、うちの会社が岡崎さんの会社にパイプがあるかも知れないですし、上司に聞いてみましょうか」
岡崎さんは、うーん、と唸ってから、困った顔をした。
「やっぱり大丈夫です。会社はちょっと、やめておきましょう。大事になってしまうし」
「大事になっても、何か起きた後では遅いですよ。違和感があるなら早めに言ってください。何事も予防です」
それが難しいのは分かっていても、わたしは言いつのった。職場がからんでくるなら、なおさらだ。しっかりした証拠でも無い限り、会社に訴えることは簡単なことではない。
「ありがとうございます、心配して下さって」
彼は誤魔化すように笑った。珍しい。
「会社だと人が多くて顕著なだけで、ほんとは、変なのは会社だけじゃないんです。家でも外でも、周りの人がみんな怒りっぽいんです。なんか、変な話なんですけど。低気圧ですかね」
もしかしたら、見た目以上に参っているのかも知れない。
「気のせいかもしれないですね。最近仕事が立て込んでて、疲れてるから僕も過敏になってるのかも」
そして岡崎さんは、いつものように微笑んだ。
なんとなく、そこで扉を閉ざされた気がした。わたしを気遣ってかもしれないけれど、やはりこれ以上は触れないでほしいという、空気を感じた。
どうしたんですか。何かあったんですか。とか、もっと踏み込んで聞けばいいのだろうけど。
依頼人になら聞ける。仕事だから。良くも悪くも他人だから。だけど、簡単に言えなかった。進んでいいのか分からなかった。
目の前をヘッドライトの群れが通り過ぎていく。先日の、井内くんのことを思い出した。あのとき、ナイフを振り回していた男は、明らかに尋常じゃなかった。井内くんも、わたしも、普通の状態とは言えなかった。
「松下さん」
呼ばれて振り返る。岡崎さんは相変わらず静かな表情でたたずんでいる。長い腕が伸びてきた。何の気負いもなく、さりげなく。
とん、とわたしの肩を突いた。思いのほか強い力だった。
よろけて、一歩うしろに下がってしまう。
歩道の敷石が、足の裏にあたった。すぐ後ろは車道だ。駅に近いこの交差点は、交通量がとても多い。
ああ、まずい、と思ったけれど、体重を前に戻せない。運転手に止まれと異能を使うのはさすがに無理だ。出来たとしても大事故を引き起こす。
――ヒヤと、身体中を冷たい予感が駆け抜けた。
「すみません!」
ぐい、と腕が引っ張られる。
勢い余って、岡崎さんの胸に倒れ込む形になった。ぎゅう、と抱きしめられる。何が起きているのかと思う間もなく、今度は引き剥がされた。
「大丈夫ですか!? 怪我とかしませんでした!?」
わたしの腕を掴む手が強い。明らかに動揺した顔で、岡崎さんはわたしの顔をのぞきこんだ。
「平気ですよ。岡崎さん、ふらついてます? 大丈夫ですか?」
何でもないように、わたしは明るい声をあげる。
「ぼくは問題ないです。そんなことより」
そんなことより、と彼は繰り返した。珍しく動揺して、わたしを見て、道路を見比べて、唇を引き結ぶ。
すみません、とつぶやいた。
「今日は帰りましょう。やっぱりちょっと疲れてるみたいです」
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