第12話 気づく前には戻れない
嫌な予感が的中して、わたしは考えるよりも前に駆けだした。
「栄くん、警察呼んで! 鈴木さんは砂川さんとミナさんの方を」
「松下さん、ひとりで危ないですよ!」
「大丈夫だから! 依頼人を守って!」
栄くんが追ってこようとするのを、振り返って制止する。そんなー! と後ろで鈴木さんの声があがったけれど、無視してわたしは先へ向かった。
一方通行の道を少し進めば、すぐそこも大通りだった。自転車も通行できる広い歩道には、遅い時間でも人がたくさん歩いている。子供の声が聞こえた。
同時、すぐ近くで悲鳴があがった。人並みがサッと割れる。
その中を、手にナイフを持った男が、ふらつきながら歩いてきた。ゆらりと体を右に左に揺らして踏み出すたび、近くにいた人が悲鳴を上げながら逃げていく。
誰か傷ついた様子は無かった。――まだ、今は。
男はすぐ近くのコンビニエンスストアの店内に入って、新聞差しを蹴飛ばす。ふらりと出てきたと思えば、近くのガードレールをガンガンに蹴りつける。そして気まぐれに振り返る。
体を揺らしながら、悲鳴を上げてさがっていく人だかりに向かっていく。
「やめなさい!」
わたしは力いっぱい叫んだ。
男が振り返る。虚ろな目をしていて、焦点が合っていなかった。今度はふらつきながらこちらに向かってくる。わたしの
あの痴漢の一件と同じだ。どこか普通じゃない。常軌を逸していて、異能力をはねのける。
だめだ、このままでは。被害が出てしまう――
「おい、
ぐい、と後ろから腕を引っ張られて、わたしは思わず振り返った。よく見知った顔。よく知っている体温。
わたしを追いかけてきた井内くんだった。
「井内くん、なんで」
動揺に声が震える。
「なんでも何も、何か起きてるとこに依律がつっこんでいくからだろ」
ぞわり、と心がざわめいた。だめだ、普通の人が、異能力を持たない人がこんなところにいたら危ない。
わたしはピンヒールの踵を鳴らして、視線を男の方へ引き戻す。
井内くんに異能力を使うところを、見られたくなかった。でも、そんなこと言っていられない。
確実に、ちゃんと止めなくては。
わたしは男の焦点の合っていない目をしっかりと見据えて、両足を踏みしめた。おい、と、わたしの腕を引っ張る井内くんに構わず、そのまま。
今度は駅のときみたいに感情的にならない。まわりに影響も与えない。
男がこちらに向かってくる。ナイフを振り上げる。周囲の悲鳴がひときわ大きくなった。
相手の血走った目をただ見据える。状況に、相手の目に圧し負けるな。自分に言い聞かせて足を踏みしめる。
ただ、目の前の男にだけ命じる。
「止まりなさい」
依律、と叫ぶ声がする。わたしを引き寄せ、かばうように抱える腕。
男はわたしの前でナイフを振りかざしたまま、銅像のように固まったまま動かない。だけどわたしは男から目を離さなかった。
また暴れ出すかも知れない、わたしの異能力をまた弾き飛ばすかもしれない。油断できない。
たっぷり十秒ほどたっただろうか。
「……なんなんだ?」
わたしを抱えた井内くんが、恐る恐るというように顔をあげた。
「ありがとう。助けてくれて」
わたしはただ静かに息を吐いて、井内くんの体をそっと離した。疑問符だらけの顔で、井内くんは男を見ている。
唐突に、雑踏の中から、コンビニエンスストアの中から、人が飛び出してきた。数人が男を取り押さえる。
遅ればせながらパトカーの音が鳴り響き始めて、雑踏の人達がほっとした気配がした。安心したのか、誰かが泣き出す声が響く。
――良かった。抑えこめた。
ホッと息をついたときだった。
こちらを見ている子供と目が合った。
コンビニエンスストアのドアの横で、ちょこんと立っている。ひとりぼっちで。
つやつやの黒い髪をきれいにカットされて、襟袖に凝ったステッチの入ったシャツを着て、ハーフパンツをはいた、小綺麗な子供だった。
男が動かないのを確認してから、わたしは子供の方へ向かう。おい、と井内くんが止める声が聞こえたが、構わなかった。
子供はくるくるとした黒い目を、長い睫でパチパチとまたたく。愛らしい顔立ちからは、少年か少女か分からなかった。
「きみ、こんな時間にどうしたの? お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」
わたしは子供の前にしゃがんで、目線を合わせる。
こんなに雑然として、車もいきかうような場所で、子供ひとりでうろついているのは考えられない。――この子供、見た覚えがある。
子供は、赤い頬をほころばせて、にっこりと笑った。
「オマエ」
淡々とした、明るくも硬い声が、放たれる。思いも寄らない呼びかけに、わたしは一瞬固まってしまった。
子供はますます笑みを深める。
「――オマエ。平然としているな」
ぞわり、と肌が粟立つ。
夏も近づいた季節、汗ばんでいたはずの体に、悪寒がはしった。
「君は、なに」
「オマエこそ何だ。オマエ、オレと同じだな」
動揺した。
これは、人間じゃない。さっきの文車妖妃ののうなあやかしだ。
同じ、とはなんだろう。どういうことだろう。
心臓がざわめく。おかしい。心を掻き回される。
さっきの新人達の思わぬ行動に動揺したからでも、井内くんにまた会ったからでもない、男がナイフを振り回したからでもない。
故意的に、心の中に手をつっこんで掻き回されるような、嫌悪感。違和感に気付いていても、おさえられなかった。
だめだ、揺さぶられるな。
思うけれど、心がザワザワと波打っている。
――この得体の知れないものと、わたしは同じ。
この違和感を、嫌悪感を引き起こすものと同じ。
さっきナイフをふりまわしていた男が、この子供の仕業なんだったとしたら。こんな妖怪と、わたしは同じだろうか。
いつもの夢が脳裏をよぎる。お母さんが泣きながら、リビングの床にうずくまっている。
あれはただの夢じゃない。過去にあったこと。わたしが引きおこしたこと。誰もを巻き添えにして、苦しめてきたこと。
「――やめて」
子供の笑い声が聞こえる。ケタケタと楽しそうに笑いながら、くるりと踵を返して、人混みの中に駆け込んでいった。
「依律、だいじょうぶか?」
井内くんの声に、わたしは慌てて立ち上がった。
彼はひどく困惑した顔をしていた。――鏡だ。人は皆、わたしの感情の鏡だった。
わたしの動揺が、不安が、彼に伝染している。
ここを離れないと。こんな人の多いところで、感情的になってはいけない。ただでさえ、異常者がナイフをふりまわしていたのだ。誰もが普通の精神状態ではなくて、わたしの異能力の影響を受けやすい状況だった。
わたしはふらつきながら、人だかりをかき分けた。
さっきの砂川さんのマンションに戻るわけにも行かない。指導すべき新人も守るべき依頼人も巻き込んでしまう。路地に入らず、そのまま歩道を歩き続ける。
井内くんの声が追いかけてくるけど、構わず突き進んだ。大通りを行き交う車のヘッドライトが次々にわたしを追い抜いていく。光が眩しい。
唐突に後ろから腕を引かれて、足が止まった。込められた力が強い。
「依律、待って。ちゃんと話をしたかったんだ」
振り返ると、井内くんが肩で息をして立っている。ヘッドライトに照らされる顔は、冷静とは言えなかった。
「井内くん、今日はやめておこう」
わたしはなるべく気持ちをおちつけようとするけれど、うまくいかなかった。動悸がおさまらない。
「いや、でも依律、もう会ってくれないだろ」
そんなことはない、と応える前に、彼はわたしに頭を下げた。
「この間は、ほんとにごめん。あんなことが言いたいんじゃなかった。どんどん突き進んでいく依律を見て、寂しかったっていうは確かだけど」
わたしに遮られるまいとしたのか、口早に言った。井内くんは顔をうつむけて、泣きそうにため息をたくさんついた。
「依律はいつも、肝心の所で俺を頼ってくれてないのが、なんとなく分かってた。楽しそうにしてても、スッと急に引いたり。怒っていても、泣いてても、俺の前からいなくなる」
それは――こうなってしまうから。
彼の顔とわたしは、同じような表情をしているはずだった。わたしの不安や動揺が伝播したまま、彼は言葉を口にさせられている。
わたしはもう、ただうなづくしかなかった。わたしのせいだ。
「依律、ずっと俺のこと井内くんって呼んでた。それにもずっと壁を感じてた。恋人なのに。頼ってほしいのに。甘えてほしいのに。俺だけにしか頼れないようなこと、言えないようなこと、たくさん言ってほしかった。男として、とかじゃなくて。恋人として、パートナーとして。俺は当てにされてない感じがして、すごく寂しかった。もっと頼ってほしかったんだ」
強い女。かわいげ。同僚に向けての強がりや冗談が混じっていたとしても。そういう言葉は、彼の気持ちの裏返しだったんだろう。
「ごめんね」
寂しい思いをさせていた。
やっぱりわたしは、自分のことにいっぱいいっぱいで、相手のことを気遣っているようで、少しも彼の気持ちなど考えていなかった。迷惑をかける、踏みにじってはいけない、そればかり気にして。
言われないと気付かないなんて。
――だけど、今だってやっぱり、わたしはただただ、彼を振り回している。彼自身はそれに少しも気付いていないまま。
「言っちゃいけないこと言ったと思って、余計に傷つけて、逃げた。ほんとにごめん」
誕生日のあの日、井内くんの言葉に傷ついた。応援してくれていると言っていたのに、本当はそうじゃなかった。こういうわたしのこと、分かってくれていると思っていた。――分かってほしいと思っていた。
だけど、そんなのわたしの一方的な押しつけで、わたしこそ相手の気持ちをちゃんと考えていなかった。
相手のことを慮っているようでいて、少しもそんなことなかった。相手の反応で自分が傷つくことばかり考えていた。
なんて傲慢で、なんて思いやりがなくて、なんて自分勝手なんだろう。
自分の事ばっかりだった。自分を守りたいだけだった。
さっき砂川さんが引っ越しをすると言ったときにも思った。
話し合いや提案は、相手と関わり合う行為だ。今後の線引きのためだとしても。それすら行わないのは、拒絶だ。楽な方向に逃げているだけだ。それが悪いとは言えない。自分を守ることだって大事だ、ただ、もしかしたらそれは――わたしも同じなのではないかと。
自分の異能力を言い訳に、相手に影響を与えることを恐れて、何も説明せずに後ろに下がってしまう。
どちらかが悪いなんて事はないんです。と、岡崎さんは言っていた。
きっとその通りだ。わたしも彼も、お互いにきちんと向き合わなかった。踏み込んで拒絶するのが恐くて、そのまま誤魔化して、そして誤魔化しきれなくなった。
わたしは、パートナーとは背中を預け合えるような関係がいいと、岡崎さんに言った。だけど。彼はもっともたれてほしかったのかもしれない。そういうお互いの違いを、きちんと考えなかった。
「性分なんだ」
ごめんね。とわたしは小さく笑った。
甘えたら、迷惑をかけてしまう。
彼がわたしを好きだと言ってくれるのは、わたしの感情に引きずられたからじゃ無いのかと、いつも考えてしまう。彼が喜んでいるのは、わたしが嬉しいからでは。
ほんとうは少しも楽しくもないし、つまらないのに、わたしがそうさせているだけなのでは。
「もう一回やり直せないかな。俺もこういうこと、ちゃんと言うようにするから。お互いに、ため込まないでちゃんと話そう」
わたしは、ただただ微笑んだ。それが精一杯だった。
「――ごめん」
きちんと向き合うことを思うよりも、ただただ傷つけたくないとだけ考えて、押し黙ってしまうのは、決してお互いのためにはならない。
わたしはもう、井内くんにそうやって、向き合えるとは思えなかった。
傷つけたくない、傷つけられたくない。それ以上にはなれなかった。
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