第11話 水に流すのは難しい
「ショーくん!」
女性の高い声が、狭い道にこだました。狭い道路を車が走ってきて、ヘッドライトがまるでスポットライトのように女性を照らして去って行く。
アッシュグレイの髪の、ショートパンツの女性。
「ショーくん、この間から何回もメッセージ送ってるのに、どうして既読にならないの?」
女性は足音荒く歩いてくる。たしか、砂川さんのフルネームは、
「ミナちゃん。最近、メッセージがちゃんと届かないことが多くて。ごめんね」
「嘘、ちゃんと送信済になってた。適当な言い訳しないで!」
日頃の行いというのは、こういうときに降りかかってくるんだろう。
「その女、なに」
ミナと呼ばれた女性の眦が釣り上がる。
「え、誰。どの人」
砂川さんは、おっとりと動揺する。わたしと鈴木さんと、文車妖妃を見る。
アッシュグレイの女性も、わたしたちと、文車妖妃を見比べる。
スーツの男女と、もぐもぐと口を動かしている少女。
「どいつもこいつもよ!」
逆上した様子でミナさんは叫んだ。
栄くんもいるし、わたしと鈴木さんはあまり個人的な関わりには見えないと思うのだけど。逆上している女性には、そんなこと思考の中に無いのかも知れない。
文車妖妃は、口の中の物を飲み込んで、ふふふ、と笑った。しあわせそうに。
「こいつの文は、辛くて旨みがにじみ出て、こやつの無味のといい案配だった。いい
スパイシー。と文車妖妃は淡々と言った。
「近頃は、とくにここにいれば、こいつ宛の味の濃いメッセージが集まってうまうまだった。あやつのおかげで、どんどん増えたしな」
「あやつのおかげで?」
わたしは、文車妖妃の言葉を繰り返す。何か違和感がある。
「砂川さんのおかげ?」
「そんなわけがあるか」
当たり前のように少女は言う。何か話が食い違う。
「そいつの撒き餌に集まってくる文は確かにそいつのおかげだが。それだけでこんなにうまい飯の種がここに集まってくるものか」
ちらり、と何かまた違和感があった。文車妖妃の言葉だけではない。
なんだろう。この間の駅のホームの時に似ている。暗くてよく分からない。これは何か――視線のような。
だがそんなことを気にしている場合でもなかった。これだけ騒いでいれば、近隣の方の注目を集めていてもおかしくない。マンションのベランダや窓から、様子をうかがっている人もいるだろう。
「ショーくんはいつもそう!」
女性の声はどんどん感情的になっていく。
「ちゃんとあたしのこと見てよ! どうでもいいからメール返さなくたって平気なんでしょ!」
金切り声で叫ぶと、ショルダーバッグから何かを取り出した。街灯の下で銀色に光る。――ハサミだ。
「おちついて。それ大事な商売道具だろ」
さすがに砂川さんも動揺したようだった。文車妖妃は興味津々で彼女を見ている。栄くんは後ずさったが、何故か鈴木さんは前のめりになった。嫌な予感がする。
「そうやって、中途半端に優しいから駄目なの!」
ミナさんはひときわ大きな声で叫んで、ハサミを振りまわしている。感情にまかせて駄々をこねているようなもので、誰かを狙ったものではなかったけれど。
まずい、止めないと。
激情している人には、わたしの異能力は効きにくい。この間の痴漢の一件でもそうだった。だから、異能力を過信しないで、慎重に――
まずは、わたし自身が落ち着いて。それから、ゆっくりと言葉をかける。
「ミナさん? ひとまずハサミをしまって、話し合いを――」
言いさしたところだった。
「おい、何やってんだ!」
女性の後ろから、叫ぶ声がした。まさか、いま、こんな時に。
「井内くん、こっちに来ないで!」
思わず叫んだ。駆けてくる足音が、ピタリと止まる。
反面、わたしが異能力を使いそびれたせいで、ミナさんがハサミをふりかぶる。しまった。
わたしはもう一度彼女の目を見た。何もかもを拒絶するかのような、感情の塊のような瞳だった。押し負けてはいけない。
「どうか、落ち着いて――」
そのわたしの横で、鈴木さんが、パン、と両手を叩いた。――柏手を打った。
一瞬、ひやりと爽やかな風がふいたような気がした。そしてわたしの背筋には、冷や汗がつたった。
「落ち着いて下さい!」
大きな声があたりに響き渡る。それと同時だった。
女性の頭の上、何も無いところから、水の塊が落ちてきた。
盛大な音をたてて、文字通りバケツをひっくり返したような水が、女性に降りかかった。水しぶきがその場の全員に降りかかる。
まさに「冷や水を浴びせられた」状態で、誰もがぽかんとしていた。
頭から水の塊をぶつけられた女性は、アスファルトの上にガックリと座り込んで、呆然としている。ハサミがその近くに転がっていた。
うわ、うわ、うわ、と栄くんは足元を見てつま先立ちで下がった。地面もびしょびしょだった。「バカ鈴木!」と吐き捨てた。
「え? え? どこから来たのこの水」
砂川さんはぽかんとして空を見上げた。誰もいないし、すぐ横のマンションのベランダにも、人の姿は見えない。
鈴木さんの特技は、神職の有資格であることや空手だけじゃない。水を操る異能力があると、知ってはいたけど。
まさかこんな使い方をするとは。
ガックリとうなだれたくなるが、地面は濡れている。わたしはとにかく、ハサミを拾い上げた。
「鈴木さん、あとで説教」
水を人にかけるというのは、立派な暴力行為だ。
「えっ。依頼人を助けたのに!?」
確かにそうだけども。彼女が水をぶっかけなければ、わたしの異能力でおさえこめたはずだ。――いや、発動のラグでもしかしたら、万が一と言うこともあったかもしれないが。とは言っても。
「結果的にはそうだけど、でも説教」
しかも、文車妖妃がいなくなっている。――逃げられた。
暗示はたぶんかけられたし、どう罰することも出来ないし、退治するようなことでもないけれど。
気になることがあったから、問い詰めておきたかったのに。
バタバタと駆けてくる足音が再び聞こえた。これだけ大騒ぎしていたら、マンションから見ている人がいてもおかしくない。野次馬かと思ったけれど、違った。
「おい、大丈夫か?」
井内くんが駆けつけてきて、何故かびしょ濡れのその場から、思わずのように後ずさった。鈴木さんのせいで、わたしの異能が解けたんだろう。
「あー大丈夫大丈夫」
砂川さんは、笑いながら手をパタパタと振った。
「警察呼びますか?」
女性がハサミを振りかざして、襲ってきた事に変わりはない。立派な暴行や殺人未遂だった。
「うーん大丈夫。どうせ民事不介入でしょ」
「刃物を出されたんだから、殺人未遂で被害届けを出すとか、接近禁止命令を出してもらうことも出来ます。弊社から弁護士をご紹介できますよ」
「いや、まあ、でも俺も悪いし」
「よく分かってるじゃないですか」
鈴木さんがぽんと言った。わたしは慌てて鈴木さんを下がらせた。
「すみません」
「いやまあ、事実だしね」
「せめて、お話し合いの間に入ることも出来ますよ。第三者がいたほうがいいこともあるでしょう」
「うーん、お願いしようかなあ。どうしようかなあ」
自分の命を脅かされたのに、あまりにも反応が淡泊だった。加害女性を慮っていると言うよりは、やはり自分のことにも他人のことにも、あまり興味が無いように思えた。
ひとまず、この場をどうにかしないといけない。砂川さんの部屋に戻るか、警察を呼ばないなら、この女性はどうするか。
考えていると、砂川さんが唐突に言った。
「でも俺、引っ越そうかなと思って」
「それはまた、急ですね」
驚いて、少し声が大きくなる。
いやあ、と砂川さんは、あいかわらず、大したことないように笑う。
「ちょっと反省して。俺がいなければ彼女たちも来ないわけだし、俺のせいで問題を起こすこともないでしょ。引っ越ししてやり直そうかなって。とりあえず、いい機会だし、一回まっさらになろうかと」
思って、少し胸がチクリとする。悪く言えばフェードアウト、よく言えば身を引くということだ。
人に気を持たせて、ひっかきまわして、無責任な気もする。ただ彼の場合、栄くんが見たと言う女の子全員に話し合いの場を設けても、いっそうややこしいことになりそうな気がする。
「通勤電車でも遊んでてもつきまとわれるっておっしゃってましたよね」
「さすがに職場まで押しかけてこられたことはないから大丈夫かなあ」
「仕事相手の方とトラブルには発展していないということですか?」
本当に? という意志を込めたわたしの言葉に、砂川さんはにこにこと答えた。
「まあ、そこは。なんとかなるでしょ」
ミナさんが、ショーくん、とつぶやきながら泣き出した。
「ごめんね。俺、君にとってあんまりいい影響与えないみたいだから」
砂川さんは、残酷なほどにあっさりしていた。ある意味、彼女のための言葉でもあったけど、あまりにも執着がない。
彼女は言葉もなくびしょ濡れのまま、地面にうずくまって肩を震わせている。
「文車妖妃、消えましたね」
栄くんがため息をつきながら、砂川さんとミナさんを見ている。気まずそうな顔をしているのは、昨日言っていたように、他人事じゃない思いがしているからか。
聞きたいことがあったのに、消えてしまったのは痛い。失態だった。――新人の行動を予測できなかったわたしのせいだ。いくら鈴木さんの行動が予測不可能だったとは言え。
「文車妖妃がここに来て、ときどき砂川さんのメールを食べていたのは二年前からだとして。女性達が入れ替わり立ち替わりつきまとってるのも二年前からですか? 最近の話ですか?」
ここに、やたらと味の濃い文が集まると、文車妖妃は言っていた。
彼のようなつきあい方を好む人は、男女問わずいるものだ。彼の性質が、女性に執着をさせて、それがここに集まるメールを増やしたのだとしても。
味が濃くなるのは、砂川さんのおかげだけではないようなことを言っていた。普通ではあり得ないと言うことだろう。
どんどん味が濃くなっておいしくなって、文車妖妃の食い意地がどんどん張っていって、最終的に全部食べちゃったのだとしても。
その、味が濃くなる原因というのは何なんだろう。
「増えたのは最近かも。前からあったけど」
砂川さんは立ち上がって、考える仕草を見せる。あまりにも曖昧な回答だった。違和感を裏付けしてくれるものにはならない。
気にすることでもないのかもしれない。メールの未達も、つきまといも、文車妖妃のしわざだった。見ようによっては追い払えたことになるし、今回の依頼はこれで解決だ。けれど、やはりひっかかる。
考え込んだわたしに、井内くんが苦笑しながら言った。
「大変そうだな」
目の前で、栄くんと鈴木さんが、何やらまた揉めている。しまった、少し目を離した隙に。
「まあ。でも、楽しいよ。やりがいがあって」
新人に振り回されるのも、現場の仕事も。あくまで仕事だから、甘いことは言えないけど、他人に迷惑をかけるばかりのこの異能力を、少しでも人の役に立てられるのは嬉しい。
今回は、鈴木さんに持って行かれたけど。色々と。
「今日も砂川さんのつきあい?」
「いや、今日はちょと、別。
彼が言いさしたときだった。昨日も何か物言いたげだったのは、気になっていたけれど。
ちらり、と。人の影が見えて、わたしは思わず勢いよく振り返った。
さっきから違和感があった。
少し先の電柱の横に、ちいさな人影が見える。――子供。こちらをうかがい見ているのがわかる。
それから、表通りの方で悲鳴が聞こえた。
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