第11話 世渡り上手
「松下さん」
栄くんが呼んでいる。立ち話をしている場合などではなかった。
「それではわたし、仕事がありますので」
栄くんと駅員さんが痴漢の犯人を捕まえて、立ち上がらせようとしているのを確認する。もう逃げられないのを確認してから、わたしはひとつ大きく息をついた。
懺悔する人であふれる宗教画のような駅のホームを見回す。磯山さんも、停まったままの電車の人達も、すっかりうなだれている。
――みんな、落ちついて。
日常に戻って。
気を落ちつけて、穏やかに和やかに念じる。
誰も彼もが、ぽかんとした顔であたりを見回していた。何が起きたのか分からない様子で。
――また一段と、体が重くなった。
「なんだか顔色悪いですが、だいじょうぶですか?」
目の前の男性が、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
また、猫を見ますか、と言われそうな気がした。自分で考えたそれがおかしくて、ふと肩から力が抜ける。
「平気です。ちょっと――疲れたみたいで」
「朝から色々で、びっくりしましたよね。そのせいかな。お仕事って、あの人からみの件です? ぼく、良かったら同行しますよ。駅員さんに説明しましょうか」
駅員さんに連れて行かれる犯人を見ながら、彼は言った。
「それは助かりますが、でも、お時間を取らせるばかりで、何もできませんが……」
彼はあくまで善意の第三者だ。時間を拘束しても、会社から謝礼を出すことはできない。
少し離れたところで、わたしの能力の巻き添えを食った磯山さんが、きょとんとした顔で周囲を見回している。
依頼人を巻き添えにするとは、我ながら本当に失態だった。磯山さんは不安そうにしながら、こちらへ向かってくる。
「お礼なんて、されるようなことじゃないですよ。――ええと、そうだな、じゃあそのうち、軽く飲みでもおごってください」
思わず彼を見上げた。なんだか最近、おごってと言われることが多い。彼の場合は、軽口といか、社交辞令のうちかも知れないけど。
にっこりと笑顔が返ってくる。
「あ、ぼく、こういう者です」
彼は慣れた仕草で名刺を差し出した。
聞いたことがある玩具メーカーの、企画室、と書いてある。なるほど、勝手なイメージだったが、彼の落ち着いた物腰になんとなく納得がいった。わたしのような奇妙な人間も、子供を見守るような気持ちなのかも知れない。
名刺を差し出されると、社会人の習性でつられてしまう。わたしも内ポケットから名刺入れを取り出した。
「松下と申します」
警戒心を抱く暇もなくサッと差し出してから、あれ、もしかしてこれって新手のナンパなんだろうか、と一瞬思った。
けれど、そんなこと考えるのもおこがましい気がして、すぐにかき消す。彼は名刺を眺めて、へえーっと声を上げる。
「奇妙な物音や、不審な人影に悩んでいませんか? お気軽にご相談を! ――へえ、おもしろい会社ですね」
「調査会社をしております。困ったことがあったら、どうぞ御連絡下さい」
「マネージャーさんなんですね。すごいですね」
少し、心がピリついた。だけど彼の口調は嫌みのかけらもなく、素直に感心したような声音だった。
笑顔も少しも変わらず、にこにことわたしを見ていた。
「何かあったら遠慮なく相談させてもらいますね。企画のアイデアもらえるかもしれないし」
「そういうご相談に乗れるかはわかりませんが」
苦笑する。
「でも、この間より元気そうで良かったです」
彼は穏やかに微笑む。一瞬、わたしが応えに窮したところで、磯山さんがやってきた。
男性に向けて、うつむいたまま、あの、と声をだす。それから顔を上げて、言い直した。
「あの、ありがとうございました」
「いえ、ぼくは何も」
「そんなことないです。あなたのおかげで勇気が出ました」
なるべく騒ぎにしたくないと言っていた彼女が、掴まえてと叫んだ、あの変化はやはり彼のおかげだったんだろう。
「じゃあ、ちょっと後始末に行きましょうか」
冗談めかして言いながら、嫌みのない雰囲気でわたしに会釈をする。磯山さんと一緒に歩き出した。わたしも二人の後ろをついていく。
まだしびれが残っているのか、小刻みに足踏みをしながら、犯人を駅員さんに託した栄くんが駆け寄ってくる。磯山さんと並んで歩き出した彼を見ながら。
「誰なんですか?」
「先日仕事の帰りにたまたま会った人」
「知り合いじゃないんですか? すごい親しげでしたけど」
「二回目だよ」
「――へえ、ふーん」
栄くんは目をすがめて、彼の去った方を見た。
「ああいうの好きなんですか?」
「おっさんかね、君は」
笑ってしまった。
「酔っ払って気分が悪くてぼんやりしてたところを、親切にしてもらったんだよ」
少し誤魔化した。
「へえ、意外ですね。松下さん、すごいちゃんとしてそうだし、酒に飲まれたりしなさそうなのに」
――弱くはないけど、お酒は気が緩むので、あまりたくさんは飲まないことにしている。そういうことも、誤魔化しも見抜かれた気がして、ドキリとする。最近の若い子は聡い。油断がならない。
それに栄くんはまだ少し不満そうだった。
「さっきの人、誰にでも人当たり良さそうで、嫌みもなくて、大人で、いい人そうですよね」
――誰にでも。
栄くんはそんなつもりなかったかもしれないけど、わたしに少しチクリと刺さる。ちょっと変な人で、優しくしてもらって気になってはいたけれど、誰にだってそういうタイプなんだと。
わたしは歩きながら笑って応える。
「君もそんな感じに見えるけどね」
「いい人そうですか?」
「チャラそう」
「ひどーい。でも今日こそは、お疲れ様飲みですよね?」
すっかり元の調子の栄くんに苦笑しながら、振り返る。
駅のホーム、訳も分からず立ち止まったりうずくまったりしていた人たちが、首をひねりながら活動を再開する周囲を見回す。
やはりさっきの子供の姿は、どこにも見えなかった。
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