第8話 通勤ラッシュの圧

「おはようございます」

 翌朝、改札の横、なるべく邪魔にならないところで磯山さんと落ち合った。

 栄くんはひどく眠そうな顔で、おはようございます、と続いた。これは、遅くまで飲んでいたんだろうか。


「よろしくお願いします」

 磯山さんは、うつむいたままわたしたちに頭を下げた。昨日よりも緊張しているように見えた。


「なるべく側にいますから、安心して下さいね」

 はい。と彼女は細い声で応えた。




 朝のラッシュでの仕事は、予想はしていたけれど、とんでもない状況だった。

 誰かの足を踏んだら大事だからローヒールの靴をはいてきたけれど、わたしは身長があるほうだからまだいい。

 どちらかというと小柄な方の磯山さんは、顔が他の人の胸や肩の位置で、人混みの中に埋もれてしまって、息をするのすら苦しそうだった。あれでは周りの状況もよく見えないだろう。


 身動きもとれないくらいにもみくちゃになりながら、ただただ磯山さんの近くにとどまるだけで一苦労だった。

 乗降の波で人が動くと、無理矢理とどまるのはどう考えても迷惑だ。とはいえ今は迷惑だと言っている場合でもないのだけど、それでもやはり自分の意志と力で抵抗できるような波ではなかった。

 栄くんがどこに居るか把握するのも厳しくて、とにかく磯山さんを見失わないようにだけ意識を集中した。


 こんな中で、不審な人物を見分けるのは難しい。やはり昨日目星がつけられたら良かったのだけど、こればかりはしかたがない。


 万が一があったときの証拠固めのために、スマートフォンで撮影することなども考えていたけれど、隙間がないのでそもそも撮影が難しい。手元が見えるんだったら冤罪だって生まれにくいだろうから、予想はできたことだったけど。


 幾度目か、駅で停車する。人の波が動いて、ため息をつくのすらためらわれる人混みの中、なんとか磯山さんをうかがい見た。


 ドアが閉まる、空気エアーの音がする。発車の揺れで、ぎゅうぎゅうの人達もふらつく。なんとか踏ん張って見ていると、磯山さんはうつむいて唇を噛みしめていた。


 間近に、男性がいる。眼鏡のスーツの男性。体格のいい。磯山さんの耳に息が吹きかかるくらい、近い。

 どこかうつろな顔をしている。目の焦点があっていない感じがした。磯山さんの方を見ている様子ではない。それがまた、薄気味悪い様相だった。


 異能力者の気配は感じない。だけども、普通とはどこか「違う」感じがした。


 満員電車とは言え、あまりにも磯山さんに近い。密着しているだけでなくて、揺れにあわせて必要以上に彼女にのしかかっているように見える。


 普通に、ゾッとした。

 聞いていなかったら気付かなかっただろうか。けれど、そうと知って見ると、どう考えても挙動がおかしかった。

 平気で、人の境界を侵して、危害を加える人間。それだけで気味が悪い。


 ――動揺するな。

 わたしは自分に言い聞かせる。不必要に、まわりの人間に動揺を伝播することになる。


 犯人だけになんとか異能力を使いたい。接触できれば、ピンポイントで感情を伝えるのはやりやすくなるのだが、これだけ人と密着していると、あまり状況は変わらない気がする。


 ――とにかく、彼女から離れて。

 強く念じる。


 押し合いへし合いの状態だった磯山さんのまわりに、なんとなく、ゆるゆると空間が出来る。

 ただでさえぎゅうぎゅうのところ、よそにしわ寄せがいったのは申し訳なく思う。


 それからあとは、電車が止まったときに、外に出るように誘導できればいい。

 まわりの人を巻き込んで、降車したくない駅で降ろす羽目になるかも知れないけれど、許してもらうしかない。みんななんで降りたのかわからなくて、青ざめることになるかも知れないけど。


 けれども。

 皆が動いたのに、例の男性はそこにとどまっていた。極端に磯山さんに密着したままで。明らかに不自然な状況だった。

 頬を彼女の頭に擦り付けるのが見えた。また、ゾッとした。


 犯人は感情を昂ぶらせた状態だろう。わたしの、意志を伝播する異能力なんて、曖昧なものだ。相手の情念が強ければ、通用しないこともある。

 感情がより強く強く出ている人間には、広域への影響を意識した状態で指示を出すのは難しい。やはり、一対一で向き合った方が間違いないのだけど。


 わたしは磯山さんの周りにできた隙間に身をすべりこませた。

 依頼人の望みは、事を荒立てないこと。自分に近づかないようにすること。だから、あまり表だって動くのはよくない。けれどこれは、目に余った。


「ちょっと」

 意を決して、わたしは声をあげた。

 けれど、それと同時だった。


「だいじょうぶですか? 具合悪そうですね」

 穏やかな男性の声が、殺気だったラッシュの電車の中に落とされる。


 ――え?

 思わずわたしは声の主を見た。凝視してしまう。


 背が高くて、穏やかに微笑む顔。「磯山さんから離れるよう」周囲に強く念じたはずなのに、平然とした顔で彼女の側にいる。

 犯人ならばまだ、わたしに押し勝つのはわかる、それだけ歪んだ執着を抱いているのだろうから。


 一瞬、犯人とは別の、やっかいな相手が現れたのかと思った。犯人と同じように、もしくはそれ以上に、何らかの悪感情でわたしの異能力に抵抗できるような人物かと。

 だけども、ただ、この人は。


 ――見て下さいよ。うちの実家の猫。かわいいでしょう?

 にこにこと笑いながらスマートフォンの画面をかざした姿を思い出す。


 わたしに声をかけたときのように、心配そうに磯山さんを覗き込んだ。

「こっち少しすいてるから、場所変わりましょうか」

 眼鏡の男性をチラリともみないで、さりげなく言った。この眼鏡の男性の不審さになんとなく気付いている、だけど事を荒立てないように盾になろうとしているのだと思った。


 すみません、と細い声で磯山さんが応える。

 少しだけ隙間が出来たとは言え、まだぎゅうぎゅうの車内でなんとか彼女は移動する。その後ろを、眼鏡の男性がぴったりとくっついてついていく。

 明らかにおかしかった。


「え、なにちょっと、キモいんだけど」

 どこかから、思わずのように女性の声が上がる。続いて、どんだけくっついんてんだよ、と男性の声。痴漢? と誰かが言った。


 わたしが念じるまでもなく、眼鏡の男性を遠巻きに少し輪が広がる。

 後ろの方で、痛い、と声が上がった。何事か、押すな、とざわめきが広がる。キモい、いちいち騒ぐな、と次々に声が上がった。磯山さんの細い肩が、より小さく丸まっていく。


 あまり良くない状況だった。思わぬ男性の登場に動揺している場合じゃない。

 わたしはなるべく静かに息をし続ける。穏やかに、そっと深呼吸する。

 自分自身の意識が乱れ高揚しているとき、まわりの人へ「興奮しないよう」「苛立たないよう」指示を出すのは難しいから、まず自分が落ち着かなければ。


 そして、強く強く念じる。騒ぎ出さないように、被害者を糾弾しないように。

 ――指示を出す。



 周囲の不穏な空気が、少し和らいだ気がした。

 あとはただ、なるべく皆が穏やかになるように念じる。

 悪人を捕まえてほしいとか、何が正しいかわかってほしいとか、そういうことを願ったときもあったけれど、大失敗だった。


 こんな狭い場所で、皆が誰か一人に向かって怒りを抱けば、どうなるか考えるだけで恐ろしい。依頼人の希望でなくたって、なるべく怪我人など出ないようにしたい。


 影響を受けるレベルも人それぞれだ。

 文句をいいながら、本心ではゆるせないと思っていたり、被害者をかわいそうに思っていたり、加害者やまわりを恐れているだけで前に出られない人もいる。

 そういう人に、正しい行いをするように暗示をかければ、わたしが思った以上の影響が出ることもある。


 ただ、なにも、誰も、誰にも危害を加えないでほしい。


 ひとまず男性のおかげで、犯人から磯山さんを離すことは出来た。

 犯人の男は、間に入った男性には見向きもせず、ただただ磯山さんを見ている。それがひどく不安を煽った。


 このまま駅までいって、磯山さんを電車に残したまま、犯人を電車から降ろせればいいのだけど。

 犯人に対して、離れろという暗示が聞かなかった以上、うまくいくか分からなくなってきた。被害にあった磯山さんがこの場を離れたい一心で、一緒に暗示にかかって電車を降りてしまう可能性も高い。

 でも、とにかくやらなくては。それができなくて、なんのための異能力だろう。


 ――外に出たい。

 自分の気持ちをまず誘導する。これは、とても簡単だった。こんなぎゅうぎゅうの罰ゲームみたいな電車からはやく降りたいのは本音だ。


 ちょうど停車のアナウンスが流れた。しばらくして、電車が減速する。

 またひどく電車が揺れた。

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