第7話 しきりなおしの誕生日
依頼人の姿が雑踏に消えたのを確認してから、わたしはバッグを持ち直し、栄くんに向き直った。
「今日は遅くまで初めての現場で疲れたでしょう。今日はここで解散するから、しっかり休んで、明日に備えること」
「えー飲んで帰ったらダメですか」
のんきな声が帰ってくる。思ったよりも元気だ。良かった。
「いいけど。明日に響かないようにするんだよ」
「えー、上司のおごりで初仕事お疲れ様に行かないんですかー」
察してー気付いてーと、栄くんは唇を尖らせて言った。わたしはつい笑ってしまう。
上司が何かと飲みに連れまわすようなの、嫌がられるものかと思っていたけれど。
「ごめん、今日は約束がある。それに、初仕事はまだまだこれからでしょう」
「えー彼氏ですかー?」
苦笑した。
「残念ながら、友達」
ほんとかなーと、栄くんは首を傾けてわたしを見る。
「じゃあ、無事に依頼が片付いたら、お疲れ様会連れてってくれるんですよね? 上司のおごりで」
なんともしたたかだ。わたしは笑ってしまう。
「君の頑張り次第だね」
「やったー! がんばりまーす」
気負わない声で、栄くんは手を上げて言った。
栄くんと別れて電車を乗り継いで、家の最寄り駅にたどり着いたときは、21時近くになっていた。
「いのり~~!」
明るい声が改札の向こうから聞こえた。かわいらしい女性が、おーい、と大きな声をあげている。
わたしは急いで改札を抜けて駆け寄った。
「
「だいじょうぶだいじょうぶ。待ってる間に買い出ししといたし」
彼女が両手に持っているスーパーの袋を、ひとつ取り上げる。ずっしりと重い。
「どれだけ買ったの」
「えー、だって、お肉たべたいし、飲まないとでしょ!」
肉肉肉! と梨央は陽気に唱えた。
もともと今日は、わたしの家で誕生日のお祝いをすることになっていた。誕生日当日は仕方ないから彼氏に譲ってあげる、と梨央は不満そうだったけれど。
梨央が、30路の誕生日には味噌を食べるべき、と言い張って、味噌煮込みのお鍋を作って食べる予定だった。本来は一緒に買い出しをするつもりだったけど、遅くなったので、梨央に任せてしまった。
まず炊飯器にお米をセットして、狭いキッチンでおしゃべりしながら料理をするのは楽しい。学生時代からの友人と会うと、いつでも若い頃に戻ったようにはしゃいでしまって、とても気が楽だった。
卓上のIHをローテーブルにセットして、お鍋をドンと乗せて、冷蔵庫からお酒を取り出してくる。
味噌鍋と言っても、大雑把に切り分けた野菜とちょっといい豚肉を煮込んで、ほとんど大鍋で食べる豚汁みたいなものだった。肉や野菜が煮えるいい匂いに包まれていると、疲れもどこかへ行く気がする。
「で?」
言いながら、梨央は食材と一緒に買ってきていた瓶ビールの栓を抜いた。缶ではなくて瓶で買ってくるところに、変なこだわりを感じる。
「どういうことなの?」
自分の分とわたしの分のビールを瓶からグラスに注ぐ。なみなみと。
「
ドン、と音を立てて瓶ビールをローテーブルに置いた。
まだ飲んでいないのに、すでに目が据わっている。
昨日分かれた恋人は、もともと大学のサークルの仲間だった。卒業して何年かたって、みんなで集まったときに再会した。だから、梨央とも知り合いだ。
先日の顛末は、まだ詳しく話していなかった。メッセージアプリで今日の打ち合わせをするついでに、「どうだった? たのしかった?」と気軽にはいってきたメッセージに「だめだった。別れた」とだけ返してあったのだけど。
「まあまあ、まずは乾杯。お疲れ様」
「おつかれー。お誕生日おめでとう~。三十路にクラスチェンジおめでとう~!」
がらりと明るい声で梨央はわたしとグラスを合わせた。
それからすぐ、梨央はぐびぐびとグラスのビールを一気飲みした。わたしも一緒に冷たいビールを流し込む。空きっ腹に染み渡るようだった。おいしい。
新人を連れた仕事で、思った以上に気を張っていたみたいだった。おもわずため息が漏れる。
梨央はニコニコと楽しげに言った。
「もう若くないから、今までみたいに無茶しないで、大人の余裕でほどほどの無茶で楽しく過ごそうね~」
「大人の余裕で、無茶はほどほどで、でも楽しくね」
そうそう、と梨央は笑う。
そして、ドン、とまた音を立ててグラスを置く。
「で?」
また一瞬で鬼の形相になって、梨央は言った。百面相にわたしはつい笑ってしまう。
梨央の、遠慮がなくて心配性で、明るいところがわたしは好きだった。
「ちょっとした行き違いというか、性格の不一致というか」
「なんですかそれは、音楽性の違いで僕たち解散しますみたいな、ツッコみにくい上に具体性のない理由聞きたくないんですけど。まさかあいつ浮気じゃないよね」
「それはほんとに違うから」
慌ててわたしは手を振って否定する。
「じゃあ、どういうことなのよ。背が高くてモデルみたいで、こんなにカッコイイ依律を恋人にしておいて、何の文句があるっていうの?」
べた褒めの所はツッコんでいるとキリがないので、置いておくことにした。
先日の状況をかいつまんで話すうちに、梨央の眉根がどんどんどんどん寄って、眉じりがつりあがっていく。
「どういうことなの、それは」
最初の問いかけと同じ言葉でも、声のトーンがまるでちがった。まるで体の内側に地獄の釜でも持っているかのような、どす黒い、低い声だった。
梨央はやり場のない思いの行方を捜してか、お玉をとって鍋をかき混ぜ始めた。ぐつぐつと煮えた味噌がいい匂いをたてている。
「影で? 男同士で? 恋人の悪口を言って? はあ? どんだけ器が小さいんですか?」
梨央は力説した。
「依律がなんでも一生懸命で、自立してるのなんて、昔からでしょ? 今更どういう文句なの? 自分より稼ぎがいい彼女、上等じゃないの! なんなのよ、どんだけ薄いプライドなの? 依律ががんばってきただけなのに!」
最初っから分かってたはずでしょ? とブツブツ言う。
「彼は彼で、自分が頑張ったプロジェクトの成果を横取りされたとかで、思うようにいかなくて苦しんでたみたいだから」
昇進の試験や面談の間、昇進が決まったと言った時、彼はおめでとうと、いってくれたけど、なんとなくそれまでと態度が違うなとは思っていた。
「そんなんだから出世しないの! 自分ができないだけなのに、がんばって結果出してる人にひがんでるだけ! 依律が悪いみたいな言い方するなんて! しかもそんなさ! 人の多いとこで結論出すのなんなの? これ幸いみたいな感じでさ! 陰口聞かれて取り繕うかわいげくらいないの? あやまらないの?」
これ幸い、というのは実際、本当に彼の気持ちなんだろうと思った。
梨央はなみなみとグラスにビールを追加しながらまだ怒っている。
「だいたい、ご飯食べてからとかでもよくない!? お店の人にも迷惑じゃない?」
レストランの予約のことはわたしも後で気になったけど、そこは彼がちゃんとしてくれているはず。あのときわたしが言ったように、同僚か誰かと食べに行ったかも知れない。
「別れる決意を隠したまま、一緒に食事できるほど器用じゃなかったんだよ」
「そもそも何食わぬ顔で誕生日を祝おうとしてたんでしょ。もやもやしたまま。そういうことがなかったら、いい顔してるつもりだったんでしょ! 本当にクズなんだけども!」
「でも、もやもやしてても、そんな急に結論出すことなんて出来ないと思うよ。学生の頃からの知り合いだし、共通の知り合いも多いから。それにもしかしたら、彼が何かサインを出してくれてたのにわたしが気付かなかったのかも」
「なんで依律がかばうの! だいたいサインて! いやいや、ハンドサインですか? 戦場ですか? 声に出してはっきり言え! パートナーなんだから!」
いいながらどんどん白熱していく。もしかしたら言っているうちに、自分の恋人とかの個人的な恨みを思い出したのかも知れない。
それに、パートナーなんだから分かれよと、相手は思うかも知れない。梨央の言う通り、それは理不尽だけども。
「だいたい、強いって何よ。モデルみたいな見た目のくせに、こんなに部屋が片付けられない依律のギャップ萌えが分からないなんて」
「これでも片付けておいた方なんだけど……」
外で気を張る分、家に帰ってくるとスイッチがオフになってしまう。
すっかり気力が萎えて、きちんと物を片付けたり、洋服をハンガーにかけたりということをサボりがちだった。
そうはいっても、今日は梨央が来るのが分かっていたから、片付けておいた方なんだけど。――梨央は勝手知ったる仲だから、多少油断していたのは確かだけども。
「全然詰めが甘いわ~。その甘いところがかわいいとこなのにな~。普段ネイルなんてしない依律がおめかししちゃってさー、そういうとこもかわいいのに」
もおおお、と梨央はジタバタした。
「もういい! わかった! 井内なんかと別れて正解よ! そんなちっっさいヤツと思わなかったわ! よしんば結婚したって、絶対うまくいきっこないわ。事あるごとにひがんでくるし、男の俺がどうのと言い出すに違いないよ。男の俺がこれをするなんて、とか。女の君がやるべきことじゃないのかとか。時代錯誤もいいところよ」
「よしんば、って」
梨央の言い回しを笑う。
そんなわたしの顔を、梨央は寂しそうな表情で見た。怒りでこわばっていた肩から力がぬけたのがわかった。
少しも悲しまない、わたしの様子をおかしく思ったのかも知れない。
「依律……無理しないでね」
たとえ梨央が相手でも、わたしは自分の感情ぜんぶさらけ出す事なんて出来ない。
大事な友達だからこそ、わたしの理不尽な異能力の影響にさらしたくなかった。――それは、井内くんも、そうだったんだけど。
相手を大事にしたいと思えば思うほど、見えない壁を作ってしまう。きっと梨央はそれに気付いている。
それが自分でも寂しくて、悲しい。申し訳なくもあった。
「大丈夫。いつもありがとう、梨央」
ただ穏やかに笑って応える。
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