第6話 感情のるつぼ

 それでは、と。わたしはつとめて明るく言った。


「今日のご帰宅から、離れて同行しますね。ご帰宅の時間近くになったら、今回のように近くのカフェなどにいます。ご帰宅の際には一報いただけますか。どんなに遅くなっても、遠慮なくご連絡くださいね」


「すみません、ありがとうございます」

「ご遠慮なさらず。仕事ですから」

 はい、と。磯山さんは、少しホッとしたように応えた。



 依頼人が仕事に戻っていってから、わたしたちも自分の昼食を注文した。

 わたしは磯山さんが座っていた席に移動して、栄くんの向かいに腰を落ち着ける。栄くんは、興味津々の顔で言った。


「どういう風に対応するんですか?」

「犯人を確定したら電車の外に誘導して、わたしのテレパスで磯山さんに近づかないように暗示をかける」

 なるほど、と栄くんは顎に手を当てる。


「ただ、わたしは人混みが苦手で」

 実際のところ、わたしがというよりも、人混みでも平気という同僚がそもそも少ないのだけど。

 異能力は、息をしたり歩いたりというように、体の一部のようなものだから、無意識に出てしまうこともあるけれど、「使おう」と意識して使えば、疲労感を伴うことも多い。


 ましてや、生きているものに作用する能力は、ひどく疲れるものだった。

 生き物には本能や意志があるからだ。それをねじ曲げるのは、やはり容易なことではない。要するに、こちらの精神にも体にも負担がかかる。


 異能力者も決して万能などでは無い。

 誰だって何かを行うときに集中することが必要だったりするように、人が多ければ気が散って能力を発揮できなかったりする。そういう意味で満員電車は、仕事がしにくい場所ではあった。


「あー俺もです。そういうもんなんですかね」

 栄くんも、少しげんなりしたような顔で言った。


 話している間に、わたしが頼んだたらこクリームパスタと、栄くんのカレーが運ばれてくる。栄くんは、腹減ったーと、無邪気な声をあげてカレーに取り組みだした。若者の食欲はすさまじい。


「栄くんは地面に特化したサイコメトリストという話だったけど。地面が読みやすいというのは、土の地面がいいのかな。アスファルトや、建物の床や、乗り物の床というのは大丈夫なの?」

「まあ、だいたいはどこでも」

 頬張ったカレーを飲み込み、栄くんは気楽な調子で言った。


「地面に限るのは、土と相性がいいとかいうのとは違うっぽいです。人間は地面に足つけてるでしょ。だからだと思いますよ。情報がしみこみやすいって言うか。わかります?」

「わかるような気はする」

「手には行動の意識というか、情念がからみやすいから、触れたものの方が読みやすいって人もいますけどね」


 触れたものの情報が読めるのなら、依頼人に触れたら何かが見えるのかも知れないが、たとえそういう能力があったとしてもそれは容易なことではない。

 それがなおさら、痴漢の被害に遭っている女性なら。栄にそういう能力があって、女性だったとしても、それは簡単に被害者に願い出ることはできない。――うちの会社内にも、やればいい、と言う社員もいるかも知れないが。


「事前に情報を集めるだけ集めておきたいけど、電車は人が多すぎて、記録を読むのは難しいかも知れないね。やってみたことはあるの?」

「あんまりないです。必要に駆られたことがないので。情報量が多すぎると酔って気分が悪くなったりするんで、あえてやろうと思ったことはないです」


「それじゃあ、今日は人酔いをしない練習くらいの気持ちで取り組んで。これからは避けて通れないことも多いだろうから。食べたらホームでやってみよう。磯山さんの姿を見つけることが出来れば、犯人も近くにいるかもしれない」

「わかりました」


「今回は犯人を取り押さえるのが目的ではないし、必要ないかも知れないけれど、証拠固めもしておきたい。彼女の希望は近寄らせないことだけど、何が起きるか分からないから。こういった場合、やっていないと言い張られたらどうしようもないしね。そのためにも犯人の目星はつけておきたい」


 我々の存在に気付かれて、逆上して依頼人に危害が及ぶようなことはあってはいけないから、慎重にうごかなくてはならない。

 なるべく確実に一度ですませたかった。



 食事を終えてから、磯山さんの務める会社の最寄り駅へ向かう。昼過ぎのホームに人はまばらで、状況確認にはちょうど良かった。


 ホームの柱に寄りかかるように立って、栄くんは目を閉ざした。

 磯山さんが今日ここを通ったのは、朝8時40分頃。事前に聞いた情報だと、車両は毎日変えるから覚えていないとのことだった。

 栄くんは、気軽な調子だったのから一変して、難しい顔をして唸っている。


「朝、今日の朝……」

 ぶつぶつひとしきり呻いてから、顔を上げた。

「今日は、このあたりは通ってないみたいです」


 栄くんのサイコメトリーは、なかなか精度がいい。大体の時間を絞り込んで見ることが出来るのは強みだ。ただやはり、情報量が多いのはつらいようだった。

 後ろを通りかかった人が、少し不審そうにわたしたちを見る。


「大丈夫? 気分が悪いなら、休もうか」

「平気です。もうちょっと向こう行ってみます」

 柱をひとつふたつ超えて、また別の柱の側に立ち止まる。さっきと同じように、柱にもたれるようにして目を閉じた。


「あーなんか、眼鏡の、おっさん…………いっぱい居るけど……うーん……」

 うめき続ける。

「見えるような見えないような、見える気がしない……」

 よくわからないことをつぶやいている。


「無理しなくていいよ。最初から飛ばして調子を崩したら元も子もない。必要なときに力が発揮できなかったら意味がないから」

「そうなんですけど」

 存外彼は真面目だった。


「君のサイコメトリーは、どのくらい前まで見えるの?」

 わたしの問いかけに、栄くんは、ある程度ならどこまででも、と応える。


「普通に、時間が経つと、どんどん情報って薄れていくんですよ。よほど強力な感情がくっついてれば別なんですけど。それでも、強烈な感情が上書きしていくと、見分けにくくなるし」

 この都会で、たくさんの人が通る駅のホームというのは、そういった情報を遡るには難しかったか。


「電車と車両を特定して、被害に遭ってたときの感情が強く残ってれば、見ることは出来るかも知れないですけど。現実的じゃないですしね」

 栄くんは頭を抱えるようにしてつぶやく。

「人多過ぎ……」

 うえーとうめきながら、柱の陰にしゃがみこんだ。


「ちょっと待ってなさい」

 いきなり新人に無理をさせてしまった。

 わたしは急いで自動販売機で、冷たい水を購入する。


 取り出し口から拾い上げたペットボトルは、ひんやりとしていた。

 ふと、昨日の夜のことを思い出す。立ち尽くしていたわたしに差し出された冷たい水のペットボトルのことを。それから、昨日のディナーの約束のこと、恋人の言葉を思い出して、暗い気持ちが心を覆った。唇を噛みしめる。

 ――そんなこと考えてる場合じゃない。


「一旦どこかに移って休憩しようか」

 うーんうーん、と唸りながら、ペットボトルを受け取る。それと同時、うめき声が止まった。冷たい水を手に眉をひそめる。


 冷たいものを触ったからとか、そういう様子ではない。栄くんは固まっていた。

 うつむいて地面を睨んだまま、つぶやいた。


「なんか、子供がいる」

「こども?」

「朝のラッシュの時間に、ひとりで立ってる子供が見えました。人混みごちゃごちゃしててわかりにくいんですけど」

「ひとりで?」

「ひとりです。親がちょっと離れたのかも知れないけど。なんか、ちょっと変な感じがした。…………なんか、見られてる感じ」


 痴漢の被害に遭っている依頼人の不快な感情というのは、ひどく強いものだと思う。

 強い感情なら残りやすいはずのそれすら、上塗りしてしまうような人の感情のるつぼにあっても、強く印象を残す子供の姿。

 なんだかすごく、嫌な感じがした。


「とりあえず、今日はもうやめておこう。ほら、通行の邪魔になるから、どこかに座ろう」

「依頼人と、まわりの人からしっかり目を離さないように気をつけよう」

 そうですね、とつぶやいて、栄くんは柱を支えに立ち上がった。ホームの端のベンチに移動して、並んで座る。


 栄くんは水をごくごくと音がするほど勢いよく喉に流し込む。

 それから、はあ、と大きく息をついて、笑った。線路を挟んだ向こう側のホームを歩いて行く人を眺めながら、つぶやく。


「ちょっと嬉しいですよね」

「嬉しい?」

「あんまり今まで、自分の異能力のこととか、人と話したりしてこなかったんで。できなかったんですけどね、この会社入ってから似たような環境の人ばっかりで、ちょっと嬉しいです。あるある話とか出来るし」

 苦労話もだけど、あるある話なんかは確かに、他じゃ出来ないだろう。

 再び、ひとつため息をついて、栄くんは言った。


「せっかくだから、ちゃんと役に立ちたかったんだけどなあ。俺が情報を見れて、念写できれは話は早かったですよね。情報共有しやすいし、被害者にもう一回恐い目にあわせる前に捕まえられるし」

「共有はともかく、それを証拠にはできないな」


 念写は、見たものを、フィルムなどに写す能力のことだ。たしかに、地面の記録を見ることが出来る栄が念写できれば、監視カメラがないところであっても、証拠とすることは出来る。


 だが、「栄くんだけが見えたもの」を「念写する」というのもリスクが高い気はする。それが現実にあったことかどうか、誰も判別できない。それが記録の混線であったり、彼のねつ造であったりしないという証明がないからだ。

 本人が見たものをもとに別の証拠固めをしたほうが、客観的な事実を掴むことが出来る。


「依頼人の希望は、犯人を遠ざけることですけど。犯人が俺たちに気付いて、逆上したりしたらどうするんですか?」

「わたしが押さえ込むから。そこはなんとかなると思う」

 松下さんがですか? と、栄くんは不安そうに言った。


「不測の時は実力行使に出ていいんですよね? 相手が暴れたら危ないし俺が捕まえた方が」

「大丈夫だ、わたしの方が適任だと思う。暴れたときのことは気にしなくていい」

「鈴木みたいに、空手の段持ちとかですか?」

「格闘は得意ではないが、格闘に持ち込ませない自信はある」

 不審そうに栄くんはわたしを見た。ただ苦笑して応える。


「わたしはテレパスだと言っただろう。大丈夫」

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