第2話 終わりの誕生日2
駅を出て、ひたすら歩き続けた。街灯の下をひたすらに進む。人気が少なくなって、どんどん道は暗くなってくる。
ふいに信号待ちで立ち止まって。赤信号が青になって、そこにいた人たちがいっせいに歩き出す。
わたしはその流れを見送っていた。一度立ち止まると、足が動かなくなった。また赤信号になる。
「大丈夫ですか?」
ふと、真横から声がした。
降ってきた声に、わたしは顔を上げる。スーツ姿のサラリーマンが隣に立っている。さっき別れた彼よりも高い位置で、にっこりと笑う顔と目が合った。
「え、あの……」
あまりにも唐突で、わたしはうろたえた。誰かに声をかけられるなんて、予想もしていなかった。まわりで信号待ちをしている人達は、変わらず少し暗い顔でこちらを気にしている。
対照的に、わたしの隣のサラリーマンは、にこにこと穏やかに笑っていた。街灯の下にいたせいで、変に眩しかった。
「お水どうぞ。顔色悪いから、ちょっと気になって」
ペットボトルの水を差しだしてくれる。
今は誰とも関わりたくなくて、わたしは余計に戸惑った。
「あの、平気です。すみません」
声がかたくなる。それに少しも構った様子も無く、その男性はにっこり笑って応えた。
「大丈夫。未開封ですよ」
そういうことではないのだけど。苦笑してしまう。ピリついていた心が、少しだけほぐれた気がした。なんとなく釣り込まれて手を出してしまう。
ペットボトルが冷たい。買ってきたばかりのものだろう。ひんやりしたものに触れて、昂ぶっていた気持ちが少し落ち着いたような気がした。
受け取った水をなんとなく見ているわたしに、男性はスマートフォンを取り出して見せた。
「動物好きですか? 猫の写真見ます?」
――一体、なんなんだろう。
励ましてくれているのだろうか。それとも本当にただのマイペースな人なのだろうか。
ただ、チラチラとこちらを気にしている人の視線が減っていった。わたしは、少し安堵の息をつく。それに気付いたのか気付かないのか、男性はにこにことスマートフォンの画面をわたしに見せた。
「動物見てると、気持ちが和みますよねえ。とりあえず、一息ついて」
どうやら、元気づけようとしてくれているようだった。
はちわれの黒と白の毛並みの猫が、まっすぐに伸びて寝ている姿が映っている。まっしろなふかふかのお腹が、無防備にこちらを向いている。
「見て下さいよ。うちの実家の猫。かわいいでしょう?」
笑ってしまった。
男性に礼を言って別れて、わたしは来た道を戻った。
彼に遭遇したくなかったので、途中でぐるりと迂回して、別の入り口から駅に入る。人混みの中でも、電車の密室の中でも、感情を乱すこと無く、帰路につくことが出来た。
家に帰って、靴を脱いで、玄関を上がる。
ドッと疲れが襲ってきた。歩きながらスカートを脱いで、ブラウスをぬいで、そのままベッドにいきついて、たおれこんだ。
脱力感が、襲いかかってくる。
なにもする気になれなかった。
なんとなくネイルが目にはいる。もちあげて眺めてみる。少し冒険したライトグリーンのネイル。
今日の約束を楽しみにしていた。
いつも外で気を張っているわたしにとって彼との時間は安らぎだったし、わたしとっては気を許せる数少ない人のひとりだった。家族にも、親友にも、心から寄りかかることなんてできなかったから。
ネイルを見ていると、高揚していた気持ちがよみがえって、悲しくなる。
わたしのテンションが伝わったのか、ネイリストもすごく楽しげで、少し思っていたより明るい色合いになってしまったけど、特別な感じがしてそれも気に入っていた。
――ネイル、早くおとしに行こう。
見ていると、楽しかったことも、今日のこともごちゃ混ぜに心によみがえって、感情が溢れ出しそうになる。ネイルはいつも視界にはいるし、こんなんじゃ、仕事にならない。
同時に、今日出会った男の人のことがよみがえった。
――うちの実家の猫、かわいいでしょう?
彼の微妙な、苦し紛れの笑顔を見たあとで、あの穏やかな笑顔は対照的だった。
気がつくと、ちいさく笑いが漏れた。
同時に、感情のたががはずれる。いろんな波が襲ってくる。
枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
――
暗い声が聞こえる。ものすごく落ち込んで、声を出すのも精一杯というような声だった。
リビングの床にうずくまるようにして、お母さんがへたりこんでいる。
依律。
悲痛な声がする。
子供のわたしは泣いている。大きな声で泣きわめいている。遠くて一番古い記憶だ。
お母さん、どうしたの。お母さん。
わたしが大声で泣くごとに、お母さんの顔はどんどん暗く沈んでいく。お母さんは頭を抱えて大きな声をあげた。
――いや、やめて。やめて。
やめて、いやだ、どうしてなの。お母さんの声が大きくなる。イラだちに泣きわめいていたはずのわたしは、その尋常でない様子に、怯えて泣いている。
お母さんがうずくまったまま、大きく深いため息をついた。深呼吸を繰り返す。気持ちを落ち着けようとするように。
――
そして今度は、抑えた暗い声でわたしを呼んだ。ものすごく落ち込んで、声を出すのも精一杯というような声だった。
つらそうにわたしの側に寄ってきて、腕を重そうにしながらも、抱きしめてくれた。
依律。ごめんね。依律。――違うの、大丈夫よ。お母さんも依律も何も悪くないのよ。
お母さんはつらそうにしながらも、わたしの耳元で繰り返す。
何がきっかけだっただろう。多分たいしたことじゃなかった。靴下をはくのが嫌だとか、洋服が気に入らないとか、隠れておやつを食べたとか、そういうことだ。
ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい。
ごめんね。依律。ごめんね。
お母さんは根気強くわたしをなだめてくれた。お母さんは何も悪くないのに。
ああこれは夢だな、となんとなくわたしは気付いている。
子供の頃、こういうことが繰り返されて、そのうちわたしは、自分が普通じゃないんだということに気がついた。
こういう日常の記憶は、わたしの中の後悔として、深く深く根を下ろしている。調子を崩すと必ず夢に見る明晰夢だった。
わたしが嬉しかったらみんなも嬉しい。
わたしが悲しかったら、みんなが泣いてくれる。
わたしが怒ったら、みんなが怒る――もしくは怯えて、泣きながら謝ってくれる。
わたしの感情の爆発に大人達が振り回されて、誰もが罵り合い怒鳴り合う、映画のような場面に遭遇したこともある。
何かがおかしい、と気付いたのは中学生の頃だったか。
精神感応能力――テレパスだ、と教えてくれたのは、誰だったか。
他者の精神に影響を与える能力。それも、他人の無意識下に。
今日の駅前で、交差点で、感情があふれるようなことにならなくて、本当に良かった。あんなにたくさんの人がいるところで、混乱を巻き起こしたら大変なことになるところだった。
――――心底おそろしい、と思った。自分が。
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