君の心は奪えない
作楽シン
第一章
第1話 終わりの誕生日
30才の誕生日だった。
仕事をなんとか終わらせて、わたしは急いで待ち合わせ場所に向かっていた。人混みをすりぬけながら、あせる気持ちをおさえて、足早に駅のホームを進む。
恋人とディナーの予定があって、とっておきのスカートをはいて、控えめなアートのネイルをして、気持ちをあげて迎えた日。
わたしは人混みの中に、ひときわ背の高い男性の後ろ姿を見つけた。少し猫背のスーツの背。見間違えるはずもない、恋人の後ろ姿だ。
足を早め、声をかけようと手をあげかけて、誰かと話している様子なのに気づく。スーツの人たちが幾人か――同僚だろうか。
「じゃあ俺、このへんで。待ち合わせだから」
彼は前方を指さしながら、同行者に言った。
「ああ、彼女の誕生日って言ってたっけ」
「プレゼントとかプランとか大丈夫なのか?」
同行者たちから、からかうような声があがる。なんとなく声をかけづらくなって、わたしは少し距離をおいたところで、歩みをゆるめた。
「彼女いくつ?」
「たしか今日で30」
「あー……」
同行者の表情が微妙な笑みになる。
女の30才。未だに、大台に乗ったとか、もう若くないとかおばさんとか、色々言われる年齢だ。
「プロポーズ?」
恋人を指さしながら、ひとりが少し大きな声をあげる。恋人は笑いながら手をあげた。
「いや、そういうんじゃねーよ」
「そのくらいの年だと、案に言われてるんじゃねーの? 友達の結婚式がーとか、子供がーとか」
からかうような笑い声。わたしはひとり苦笑してしまう。彼らが恋人から言われていることなのか、世間の認識なのか。
彼は、いやいや、と取り繕うように笑った。
「それならまだかわいかったんだけどなー」
彼の言葉に、心臓が大きな音をたてる。
「バリキャリでホワイトな会社に勤めてて、安定してるからそういうのないみたいなんだよなー。逆に男に頼る必要ありません、みたいな。強いタイプ」
苦笑ぎみな声が聞こえる。
人の波が、わたしたちの間を行き交っていく。気がつくと、わたしは歩くのをやめていた。彼の声が少しずつ遠くなっていく。
「今年の春、マネージャーに昇進してさ。俺より上で、たぶん給料も俺より上でさ。そういうの、ちょっと自尊心傷つけられるていうか」
「あーなんかあるよな。男としてちょっとなー」
笑いがおきる。わたしは顔を上げられなくなってしまった。弾んでいた気持ちが、どんどん小さくなって、くしゃくしゃになった。
「もともとハッキリした奴で、昔はそれがかっこよく見えたんだけど、頼ってくれないし、俺なんかいる意味あんのかなーとか……。会社の若い子とか見ると、かわいげも大事だよなとか思っちゃって」
仕事でまわりの男性や年上の人達にもまれてきつかった時、昇進試験でいっぱいいっぱいだった時、彼は「
うつむくと、お気に入りのパンプスが目に入る。とっておきのスカート。
わたしにとって、30才の誕生日は、特別だった。彼らが言うような意味とは違う。
気持ちが沈んでいく。足が持ち上がらない。立ち止まったまま歩き出せない。
人ゴミの中を立ち尽くすわたしに、迷惑そうな声をあげながら人が通り過ぎていく。邪魔、とか、何あれ、と、声が聞こえる。
だめだ、こんなところで、人に迷惑をかけるわけにはいかない。わたしは爪先を睨みつけ、それから顔を上げた。
目が合う。
人のざわめきが気になったのか、少し先まで行っていた彼が振り返ったところだった。彼は驚いた顔をして、すぐに、しまったという表情になり、それからごまかすように苦笑した。
人が、わたしたちの間を幾人も行き交っていく。
スーツ姿の男性、女性、制服姿の学生達、連れだった若い男女、子供達。それがまるで立体映像のように見える。
彼と一緒にいた同僚たちが、彼の様子に気がついて目線を追い、わたしを見たのがわかった。すぐに何もかも察したのか、マズイ、という表情になり、彼になにかを言って人ごみに紛れ込んだ。
彼はわたしと目を合わせないように、顔をそらし気味にうつむきながら歩み寄ってくる。
「
目の前に来て立ち止まって、彼は気まずそうに、わたしの名前を呼ぶ。
かわいげ。
なんだろう、かわいげって。生意気で自立してて強い女は、かわいげがないんだろうか。――わたしは少しも、強い女なんかじゃないのに。
「ごめん、遅くなった」
遅くなんてないし、そもそもここは待ち合わせ場所ですらない。
わけのわからない言い訳のようなごまかしを彼は口にした。
わたしは大きく息を吸って、気持ちを落ち着ける。何気なく指先が視界に入る。
パステルカラーのライトグリーンに、ちいさな押し花を閉じ込めたネイルが見えた。ネイルをしにサロンへ行ったときの、弾んでいた気持ちを思い出そうとする。
「大丈夫だよ、まだ待ち合わせの時間じゃないし、待ち合わせ場所もうちょっと向こうだし」
顔をあげて、彼に笑いかける。
彼と目が合った。彼は驚いた表情になって、それからまた少しつらそうな表情になる。
「ごめん」
どうして、謝るの。
「ごめん。俺、もう無理かも」
「……今日、無理そうだったら、やめようか」
わたしは努めて明るく、何でも無いことのように言った。誕生日だけど。30才の、節目の日。
前から気になっていた、居酒屋風のフレンチレストランを彼が予約してくれていた。依律が行きたがっていたから、だいぶ前からおさえておいたんだと笑っていた。あれは嘘だったんだろうか。
また、ざわりと心がうごめく。わたしはなんとかそれを抑えようと、顔を笑みの形にしてみる。
「お店に迷惑かけてしまうから、さっきの同僚の人とか誘って、行けそうだったらいったらいいよ。また今度にしよう」
彼の苦い顔が色濃くなっていく。これも、わたしのせいだ。
「聞いてたんだろ。俺、やっぱり自分より稼ぎが良くて、自分より出来る女とつきあうの、無理かも。すごい自分がダメに思えて」
責めれば良かったんだろうか。それとも可愛らしく怒れば良かったんだろうか?
――でも、できない。
わたしは大きく深く、彼に気付かれないよう、深呼吸を繰り返した。気持ちを落ち着けないと。
人混みで立ち止まった男女を、通りすがりの人達が振り返っていく。さっきより数が増えている気がする。このままじゃいけない。
今日は一旦帰って、また話し会おう。今はわたしの気持ちが追いついてこない。そう言うつもりだった。だけど。
「わかった」
口をついて出たのは、他の言葉だった。
うつむいて彼は目を合わせようとしない。もう駄目なんだなと悟ってしまった。彼の中でずっとずっと積み上げられてきた何かが、崩れたんだろう。分かってしまった。
――それにわたしは早く30になって、若い女という呪縛から逃れたかった。そうすれば、「自分」というひとりの人間として、職場でも誰とでも向き合える気がしたからだ。
そういうわたしのことを、分かってくれていると思っていた。
弱い自分が嫌いだった。だから自分ひとりでもしっかりとやっていけるようになりたかったし、彼はそういう自分にとって、よりかかる相手ではなくて、パートナーだと思っていた。
引っ張って連れていってもらうのではなくて、それぞれの方向を向いて、お互いに苦手な部分は補えるような。
彼もそうなんだと思っていた。
――男としてちょっとな。
そんな言葉が出てくるなんて。
「別れよう。今まで、ありがとう」
わたしは、なんとか顔を上げて、彼に笑いかけた。困惑した表情の彼に、じゃあ、と声をかけて、踵を返す。
もうこれ以上、とどまってなんかいられなかった。
感情が溢れ出しそうだった。チラチラとこちらを振り返っていく人たち。時折、少し驚いたような様子でキョロキョロとあたりをみまわす人たち。
だめだ。このまま、家に帰ることも出来ない。電車に乗ったりしたらまずい。密室でこらえられなくなったら。
人並みをかきわけ、足早に歩き続ける。とにかくひたすら、この場を、人の多い場所を離れたかった。
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