最後の竜は霧の中に消えた
宇部詠一
第一章 ハシバミ、古代の物語
①
空にかかる月はなく、夜の木立は一層暗い。手をつないだ兄弟は灯りを持ち、山道を下りる。聞こえるのは冷たい風の唸り声ばかりではない。鳥は鳴き交わし、獣は遠吠えする。何者ともわからない声もこだまする。
足元は昨日の雨のせいでひどく悪い。兄のハシバミは、まだ幼い弟のニレの手を引きながら、誰もいない坂を下る。せめて大人が誰か家にいればよかったのだが。そうすれば、高熱にあえぐ母、ガマズミのそばについていてあげることができただろうに。汗ばんだ手を握ったまま、不安な夜が明けるのを共に待つことができるのなら、ハシバミは何だってするつもりだった。今も、家に残って薬草の汁を冷まして口にいれたり、ぬるくなった額の布を変えたりしたかった。
だが、ハシバミは弟のニレと母との三人暮らしで、家にとどまっているわけにはいかない。母が明日の朝まで持つかどうか判断できるだけの知識もなく、まだ自分の面倒を見ることもできない弟を残していくことも不安だった。朦朧としているガマズミの頭に自分の額を押し当てて、燃えるような苦しみが少しでも軽くなるように祈ってから、ハシバミは夜の風の中に踏み出した。母のうめき声は、まだ耳に残っている。
夜はあまりにも心細い。我が家から〈朝霧の里〉までの山道はこれほど長かったか。声はますます頻繁に響きあう。遠くまで届くところを見るとオオカミのようであり、低くうなるのはクマのようでもある。どちらにしたところで会えばひとたまりもない。岩場に差しかかるとニレをゆっくりと降ろしてやるが、声にすっかり委縮している。
もしも、とハシバミはまた考えてしまう。僕がもっと大きかったら、これほど怖い思いをしなかっただろう。成人の儀式を終えた立派な大人なら、嵐の夜でさえ恐ろしさを感じずに、里の長であるミズゴケのところまで行けただろう。せめて何かまじないが使えるだけの年齢に達していれば、とっくに〈朝霧の里〉まで下りられていたに違いない。たとえば、どれほど曲がりくねっていても道を外れない道教えのまじないだとか、危険な生き物には出会わない姿隠しのまじないだとか。ある程度の年齢になれば誰だってひとつだけまじないが使えるものだし、そうでなければ成人の儀式には参加できない。
ニレは頼りにならない。べそをかきながら、どうにかハシバミの足取りについてくるばかりだ。やはり家に残してくるべきだったかと迷い、しかしうろたえるニレを見て母はますます苦しんだだろうと思いなおす。それでいて、これだけ頼りない弟を外に連れ出したことで、かえって母を不安にさせてしまったのではないかとも感じられる。考えを堂々巡りさせながら進むと、まるで思考だけではなく足取りも同じところを回っているのではないかと不安になってくる。空を見ても雲が星座を隠して方角はわからず、夜道はますます恐ろしげになる。
遠くに明るい点がある。ようやく里が見えたかとほっとする。だが、それは揺れながら近づいてくる。一対の光だ。それは生きている。怯えるニレの手をつかむ。見つからないでくれ、と不可能を願う。
灯りに照らされたのは目の光であり、その牙も見ることができる。オオカミは二人を見つけ、今にも飛びかかろうとしている。二人は本能的に逃げ出し、道を外れる。木の枝で傷ができるのに構わず、目を守りながら道なき道を進む。急に谷に落ちないよう祈るしかない。だがニレが転び、ハシバミもこけてしまう。灯りを取り落とし、辺りは完全な暗闇になる。立ち上がろうとすると目の前で獣のにおいがする。獲物が手に入る喜びでよだれを垂らしている。これで終わりか。母は二人が食われたとも知らず、小屋で一人死ぬのか。
思わず目をつぶる。助かりたいと念じる。弟を、母を助けたいと心から思う。襲ってくるはずの致命的な痛みから逃れようとする。力強い願いは体を震わせ、手の先から放たれる。途端にあたりが眩しさで包まれる。まぶたを通じてもわかる。痛みのあまり、正気を失ってしまったのかと思い目を開ける。だが、変化は現実に起きている。ハシバミの両手から強い光がほとばしっていた。それは不規則に強さを変えながら、まるで水が湧きだすようにあふれている。光は混乱した表情のオオカミの顔を照らしていた。
あっちへ行けとにらみつけると鋭い光がオオカミの顔を焼いた。まるで石を投げられた犬のようにオオカミは身をひるがえした。小さくなっていく背中を光が照らしている。
「ハシバミ……」
ニレが不安そうにこちらを見つめると、光はちょうどなくした灯りと同じくらいの強さまで縮まる。二人がどう道を外れたかを知るのにちょうどいいくらいだ。元の道に戻り、道が平らになってきたと思うと、すぐに〈朝霧の里〉が見えてきた。二人は駆け出してミズゴケの家の扉を叩く。
ミズゴケと呼ばれる里の長は高齢だったが、頭も足腰もしっかりしており、まだその座を譲る必要がないとみなされていた。彼女は力のあるまじない師で、五つもの異なったまじないを使うことができた。だから彼女は里の長であると同時に医師であり、助産師でもあった。
夜中に起こされていることに慣れているミズゴケは、兄弟の必死な顔を見て何が起きたかすぐに悟った。同時に、ハシバミの周りを漂う月明かりのような光を一瞥する。
「お入り」
ニレは何も言えないまま震えている。ハシバミは彼の手を引いて中に入る。明るい部屋に入ると、ハシバミの手の光はろうそくを吹き消すように消えた。消えた途端、その光で力を使ったせいか、自分が思いのほか疲れていることがわかった。
ミズゴケの家はあちこちに植物が干されており、部屋の中を一歩進むだけで全く違う香りがする。棚の中には木の実や種がぎっしり詰まっており、何年も前の木の皮や動物の骨もある。ミズゴケは二人の前に、嗅いだだけで焦燥感が薄らぐ香りのお湯を出す。
「まずはお飲み」
「でも」
「二人とも降りてきたばかりだ。休まなければ登れまい。それに、何が起きたのかをきちんと話してくれないことには、私とてどうしようもない」
「母さんが、ひどい熱なんだ」
相手は里の長とはいえハシバミは物おじしない。いつも母から言われて竜の歯の欠片をとどけているからだ。
「いつからだね」
「今日の夕方に突然」
「何か変わったことはなかったか」
「いつものように、〈竜の谷〉で歯の欠片を探していたところでけがをしたんだ。そのときはなんともなかったし、血もすぐに止まったんだけれど」
「そうか」
ミズゴケは壁にかかっていた植物を選んで袋に詰める。
「傷から悪いものが入ったに違いない」
「助かるの」
「相手の正体がわからないことには。息が臭くなったりはしなかったかね。汗の量はどうかね」
「息はいつもと変わらない。汗はたくさんかいてる」
「食欲は」
「まったくない」
ハシバミは一つ一つ答えたが、細かな点が思い出せず歯がゆかった。あれほど母のことを心配してじっと見ていたのに。もし、自分がしっかりと母の病状を覚えていなかったせいで、ミズゴケが誤った薬を選んでしまうことがあれば、母は自分のせいで命を落とすことになるのだ。
「他に何か変わった点はなかったかね」
これ以上考えていては間に合わないのではないか。焦燥感で頭がかっとして、答えを探しているうちに時間がどれほど経ったか恐ろしくなってしまった頃、ぽつりとニレが呟いた。
「太陽の光を嫌がってた」
ミズゴケはうなずき、灯りと杖を手に取った。
「見当がついたよ」
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