垣間(かいま)見る ある歴史の情景

繚乱

第1部 小田原編

第1話 幕開 惜春の情 皐月にて・・・

 (・・・さん ・・・ )


 自分の名前を呼ぶ女性の声がだんだんと遠ざかり、逆に意識がはっきりとしてくるのが自覚できる・・・。


 ぼやけていた視界に映るのは和風の部屋のようだ・・・。


(ここは・・・ん?)


 覚醒しつつある視力が男に部屋の床の間に掛けてあった掛け軸を映しだす。


(油断・・・)


 その掛け軸には、『油断』の二文字が太い筆跡で書かれている。


(油断・・・油断の二文字の掛け軸・・・)


 男は暫しの間その掛け軸を眺めていたがやがて視線を少し移動させ、床の間の右端に目を留める。


(この絵は・・・)


 男の視線の先には屏風絵が飾ってあったのだ


(この絵は・・・確か・・・等伯か?)


 彩色されていない屏風絵を見つめながら男は考え込む・・・


(彩色されてないが、この絵の構図は・・・間違いない、長谷川等伯の宇治橋・・・柳橋水車図屏風の習作か・・・)


 男は端座してあるその屏風絵に近づくと、屏風の一双の両端を凝視する。


(方印は無いか・・・)


 作者の印を認めれなかった男はそれでも墨一色で描かれたその絵を眺め続ける・・・。


 それからどれほど時間が経ったのであろうか、男は身じろぎもせずにその屏風絵を見つめていたがやがて思い出したように掛け軸の方に目をやると


(この掛け軸・・・それとこの屏風絵・・・いったい、誰がこの部屋に・・・)


 男が更に疑問を膨らませていたその時、


「チリーン、チリーン・・・」


 男の耳に快い鈴の音が沁み込んできた。


 その鈴の音がする方を男は振り返ると、開け放たれた障子の向こうに縁側に立つ男の後姿が見える・・・


(この男・・・いつからここに・・・)


 男の視線の先には、白の小袖に鶯色の肩衣と袴を纏った男が一人立って外を眺めていたのだ。


(肩衣と袴・・・そうか・・・また・・・)


 男の頬に自嘲的な苦い笑みが浮かぶ・・・この男は以前にも何回もこのような感覚を経験していたのである。一種の思念体?と呼ぶべきか、意識だけが時間を遡上しこの男は不思議なことに歴史上の刹那のひと時を垣間見れることができたのであった。


(ならば、楽しむまでだな・・・それで、この男、この人物は誰か・・・?)


 縁側に立つ後姿の男の左肩の上には軒先からぶら下がっている風鈴が心地よい音を奏でている。


(自分は、さっきまでは彼女と一緒に小田原海蔵寺の墓地に居たはずだった・・・ひょっとすると彼は・・・やはり)


 悠然と立つ男は歳の頃は三十代後半か四十代前半か、その男は少し顎を引くとおもむろに右手を懐にしのばせると何かを取り出した。


(あ、あれは!)


 縁側に立つ男は、取り出した物をいとおしげにその表面をさすると蓋をとり、じっと中を覗き込む・・・。


(あれは、片手鏡!  あの場所にあった物だ・・・。ならば、やはり彼は・・・)


 その時、部屋のふすま越しに声が聞こえる。


「殿、柴田殿が参られました」


「うむ」


 殿と呼ばれた縁側に立つ男は軽くうなづくと手にした片手鏡を懐にしまおうとするが、ふと手を止め暫しその小さな鏡を見つめる・・・、ややあって、そのまま手にしながら歩き出すと『油断』と揮毫されている掛け軸を背にして静かに腰をおろす。


「通せ」


「はっ」


 その男の近習であろうか、襖越しに返事が聞こえると音も無くその襖が開かれる。


「源左にござる。殿のお召しとあり、まかり越しもうした・・・」


「うむ源左よ、呼び立ててすまぬの、中に入れ」


「はっ」



(源左だって!??  さっき近習は柴田殿と言ってたな・・・ まさか! あの 柴田 源左衛門か!!!)





 源左と呼ばれた男は、室内に身を入れ主と思われる男の前に着座し頭を下げ、おもむろに顔を上げる。その時、一瞬であったが対座する人物の右手に添えられていた片手鏡に気づき視線を止めたが、すぐに視線を正面に向けるのであった。


「兵たちの気は張っておるか?」


 その視線を受け、主であろう男は柔和な微笑みを浮かべながら源左に問う。


「その懸念はご無用かと。当家の総大将が床の間に『油断』という二文字の掛け軸を垂らしているのは士卒の隅々まで知れ渡っておりますのでな、ゆめゆめ油断などとする者はござらぬかと」


「そうか・・・」


「それに、監物殿があの怖い目で常に陣内を見回り致してますからな、我が愚息の勝全までも背筋がピンとしておりますわ、ハハハ・・・」


「フッフッフ・・・そうか直政がのう・・・ハッハッハ・・・」


「関白殿下のお達しで諸将達の家族もここ小田原に呼び寄せても良いとのことでありましたが当家はもとより他家でそのような事を致す者がありましょうや?」


「まずは、無いであろうな・・・そんな事をすれば滞陣中の士気が鈍るのは間違いない。あのお達しは・・・殿下御自身のためであろう・・・」


 その言葉尻に、不快そうな険を感じた源左であったが、さにあらぬ体で主に尋ねる。


「ところで殿、それがしを召された理由は?」


「うむ・・・そなたを呼び寄せたのは少し昔物語をせんと思い立ってな・・・」


「昔物語・・・とは?」


 殿と呼ばれた男は瞳の影を強め暫しの間、源左を見つめていたがやがて視線をはずし開け放たれた縁側の先に映る外の景色に目をやると、ふうーっと、ため息をこぼし口を開く・・・。


「明日・・・二日   五月二日は・・・亡き 上様の月命日にあたられる・・・」


「う 上様の月命日・・・」


 上様の月命日とその言葉に口にした源左は一瞬体を強張らせたように口ごもる・・・。


「ここ海蔵寺に本陣を構えたのも何かの縁であろう、ここの住職殿に上様の月命日の法要を頼んだところ快諾してくれてな、明日営むこと相成った・・・」


「それは・・・ようございましたな・・・」


 心苦しそうな表情で答える源左に殿と呼ばれた男は優しい表情を目元に浮かべ労わるように語り掛ける・・・。


「今までも密かに上様の月命日を弔っていた自分に気を遣ってその日はなるべく自分の視野に入らぬよう勤めていたのはよく分かっていた・・・気苦労を掛けたな」


「と 殿・・・」




(二日が命日ねえ・・・どう考えてみてもこの二人の語る上様というのは・・・それにしても・・・この二人が語る『上様』という言葉の意味が重いこと・・・)



「さて、源左よ先程の自分の願いにまだ答えてくれぬのだが」


「殿の願い?」


「ああ、もう忘れておる。しょうがないのう、クックック・・・」


「?」


「昔物語をせぬか という願いじゃ」


「ああ、その儀であればそれがしでよければ何なりと」


「うむ、ありがたい。では、これからそなたと話をするのは主従の関係ではない」


「主従の関係ではない・・・?」


「そうだ、これから昔物語をする間そちとわしは旧織田家の家臣の関係であることにする。言い換えれば上様ご存命の時代の話し方に戻るように」


「な なんと!」


「今をもってわしは、久太郎こと堀久に戻る。そちもそのようにわしの事を呼ぶのじゃぞ」


「いや・・・しかし・・・」


「おっと、いかんいかん。この座る位置ではそなたもやりずらいであろう」


 堀久と名乗った男はすくっと立ち上がると床の間を背にした上座の位置から離れ縁側まで歩くと源左に向かって誘うのであった。


「こちらにて、お話をお聞かせ願えませんか?柴田源左衛門尉勝定殿!」





(これは・・・凄いシーンだ・・・)


歴史上のある情景のひとこまを目の当たりに見ることができる・・・


思念体として二人の会話を観察できることに対し男は胸の高揚が押さえれずにいる・・・。


(二人の会話からすると、時は天正十八年(1590年)五月一日・・・北条攻めの最中のこの場所は小田原海蔵寺で間違いなさそうだな。それにしても・・・)


 男は二人の姿を見つめる・・・


(堀 秀政と柴田 源左 か・・・改めて見れば何とも数奇な運命で主従になった二人だ・・・特に・・・この男・・・)


 歴史の刹那の狭間を見る観察者の男はじっとその男の顔を見つめる・・・


 この男の癖なのか、まぶしそうに主である堀久太郎秀政の姿を目を細めて追っている・・・。

 

 歳の頃は、五十代後半から六十代前半か・・・両の鬢には彼が幾年か星霜を過ごしてきたかの証であろう白いものが映っており、その顔にはきっちりとした意思表示をした小さめな太い眉。そしてその眉の下にある少し窪んだ目元のまなじりには年輪を経たしわが浮かび出ている。頬骨は目立ち、鼻筋の通ったやや高めの鼻梁と薄い上唇の間には薄茶色のほくろが目につく・・・さらに茶色をたたえた瞳を持つまぶたはふたえで、薄い上唇を受けた厚い下唇とのバランスが妙に印象深い・・・。


(柴田源左衛門・・・勝定・・・一言で表すと伝説の男だ・・・当時生きながら謎多い伝説と呼ばれたこの男は半生を掛けて凄まじい自身の歴史を紡いできた。この男が滞在するとわかれば彼の宿泊先に何人もの人間が密かに・・・それこそ密かに訪れ彼から話を聞こうとする・・・そう・・・どこであってもだ・・・)


(何故に、同時期に生を共にする武者達が密かに源左の許を訪れ彼との会話を望むのか・・・? それには理由がある。彼の戦歴、キャリアが武者達の琴線に触れる好奇の対象だったからだ)


 柴田源左衛門尉勝定 この人物はその姓が示すとおり織田信長を筆頭に戴く織田家の宿老柴田勝家の重臣であった。勝家の居城であった北ノ庄城で勝家不在の間は城代家老として勤めるほどで勝家の信頼も厚かったと思われる。ところが突然源左は柴田家を逐電、嘘か真か寒い所が嫌になったという理由で・・・。その後一族郎党を率いて明智光秀の下に身を寄せると丹波柏原城を預けられる。そして光秀の起こした本能寺の変にも帯同、さらに秀吉との山崎の合戦では明智家先鋒の宿将斎藤利三の右脇に兵二千を率い堂々と陣を構え、最前線で秀吉側の先鋒高山右近、中川清秀の軍勢と激突。またさらに、落ち延びる光秀や利三を追撃の任を秀吉から命ぜられた堀秀政の軍勢と光秀の本陣があった勝龍寺城付近において撤退戦を敢行。山崎の合戦の翌年には賤ヶ岳の合戦において秀吉方の軍勢で最先鋒の位置に陣構えした堀秀政配下の一将として旧主筋である柴田勝家率いる本隊と戦いこれを退ける。その翌年にも小牧・長久手の戦いで秀吉から見て大失敗の結果になった三河奇襲作戦においてもこの人物は主将である堀秀政をよく輔弼し敗走する秀吉軍の中で唯一、追撃する徳川の軍勢を破るという殊勲にも貢献する・・・。



(山崎 賤ヶ岳 長久手・・・どれもこれも秀吉が天下取りのための重要な合戦だ・・・その三大合戦で仕える主をかえても常に最前線に身を置いて戦ったんだよなこの男は・・・。それでさえも凄い経歴なのにさらに・・・あの本能寺の変の経験者・・・この男の口から往時の事実を聞くことができればと考えた人の数は数え切れないだろう・・・。現代においても歴史研究者、歴史学者、歴史家、そして戦国歴史ファンにとってもこの源左という男の語りは垂涎の的になるのは必至だ・・・)



 観察者の男から戦国時代愛好家の垂涎の的と呼ばれた源左は自分の名を敬うように呼び、自分の傍らに誘う主が背を向け腰を下ろすのを見届けると視線を落とし照れるような仕草で耳の後ろをこりこりと掻く・・・。やがて小さく頷くと立ち上がりふとその部屋に置かれた無彩色の水車が描かれた橋の屏風絵に目を向ける・・・。


「この絵の意味は確か、此岸から・・・彼岸まで だったか・・・。 きゅう殿は何ゆえ、この絵をこの地にまでわざわざ持ってこられたのか・・・」


 源左はそっとつぶやくと、主が待つ縁側に歩み始める。


 源左が縁側に立つとその時一陣の風が彼の頬をかすめる・・・その風がもたらしたのか一枚の枯れ葉が・・・先年の秋冬の残り香であろうか・・・源左は床に落ちているその枯れ葉をさりげなく摘むとその場に腰をおろす。


 二人の目の前には庭・・・いや庭と呼べるものでもないかもしれないが水を湛えた石鉢の向こうに新緑からより緑が濃くなった葉を纏う木々とその根元付近に紫陽花が薄い黄緑色の花を咲かせている景色が広がっている・・・。


 二人は黙ったまま眼前にある景色を眺めている・・・聞こえるのは時折風が奏でる風鈴の鈴の音や、木々や植物がそよぐ葉音とヒヨドリやキジバトの鳴き声・・・その風景の空間に二人は身を委ねるように身じろぎもせずただ・・・ただ黙して眺め続ける・・・。


 どれくらいその時間が経ったのか・・・静寂を破るのをためらうような口調で堀が口を開いた。


「ところで、源左殿。私の事を見知ってからどれくらい経つのでしょうか?」


「殿の事を・・・」


 源左が答えようとするが、堀の抗議するようないたずらっぽい視線に気づき改めて答えなおす。


「そうでしたな・・・上様存命時  の口調でしたな、ハッハッハ」


 源左は苦笑しながら視線を落とすと往時を偲ぶように答える・・・。


「それがしが、きゅう殿を最初に見掛けたのは確か・・・岐阜城の再普請の時だったか? もっともそれ以前にも会ったことがあるやもしれぬが・・・」


「初めて源左殿に声を掛けていただいたのは、そうです、岐阜城にてです。あの頃の岐阜城の喧騒さは今でも目に焼きついていますから。当時上様は長年の大望であった美濃を手中にし時の公方様足利義昭公を迎え入れる準備やら岐阜城の再普請の最中でことのほか忙しい時期でした。その当時、私は小姓組の一員として上様の御側に仕えておりまして、上様に仕えた時期が古い私が百人近い小姓達をまとめるお役を同僚の何人かと上様から命じられておりました。その時分のある日、源左殿は勝家殿のお供をして城に上がられた時、取次ぎに参上したのが私で応対していただいたのが源左殿でした・・・」


「・・・」


「その時の私は名もなき小姓組の一人にすぎず、織田家の中で家老格の勝家殿はもとよりその勝家殿の重臣であった源左殿もまた雲の上の存在でした・・・」


 源左は、シャイな性格なのか、堀の言葉にあいかわらず照れくさそうに視線を落としながら聞いている・・・。


「そして、勝家殿が下城する際に案内した私に別れ際、私の名前を尋ねられて私が名乗ると、源左殿はうんうんと頷かれ優しい口調で 『励め!』 と言われた事を覚えております・・・」


「そうでしたかな・・・その時分は確か永禄十年(1567年)秋の頃・・・今は天正十八年(1590年)・・・二十年以上経ちますか・・・」


 源左は嘆息するように答える・・・。


 二人はしばらくの間過ぎ去った時間を思い出していたのか静かにまた眼前の景色を眺めていたが、やがて堀が気息を整える仕草をして源左に体を向ける・・・。


「源左殿・・・」


「・・・」


 源左も気配が改まった堀に対し彼の癖なのかまぶしそうに目を細めて無言で堀の顔を正視する・・・。


「これから私が、お聞きする事は源左殿にとって話しずらい事やもしれませぬ・・・が、尊敬する人生の先達のお人としてあえてお聞きしたい・・・」


「・・・」


 堀は、沈黙する源左の顔を真剣な表情で見つめる・・・その時彼の右手に握られた片手鏡を持つ手が震えているのは恐らく自身気づいていないであろう・・・。


 源左は堀のただならぬ様子を察したのか、堀の右手に震えている片手鏡を一瞥すると覚悟を決めたように答える・・・。


「それがしが、お話しできる事であれば・・・」


「ありがたい・・・」


 源左の承諾に堀は安心したように視線を下に落とす・・・そして顔を上げ


「お聞きしたい事というのは・・・」


「うむ・・・」





「本能寺の変で・・・ござる・・・」









 


 





 


 




 






 


 


 


 




 


 








 






 

 


 

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