8 原稿用紙2枚
世間が盆休みのあいだに郵便局があいていることは、あまり知られていない。だから、台風が近づいていて雨も風も強い午後、車を出して郵便局へ行った。貯金の窓口で定額貯金から三十万円を、分割払い戻ししてもらう。
郵便局で角刈りの職員さんが、端末に通帳をセットする。端末は通帳を飲み込む。
待合室のベンチでそんな音を聞くと、つい夢想してしまう。あの忙しい郵便局。せかせかと順番待ちをしている大勢のお客さんたちの焦りを全身で感じ、それに怯えながら、窓口で働きつづける自分もあり得たのだな、と。
郵政の寮にいたころは、そこが大阪市内の北東の外れ、上新庄という土地だったとはいえ、寮費は水道代、電気代、ガス台と、駐車料金を含めても、毎月二万円も要らなかった。長期の休暇はあまりとらず、海外へ行ったのも結局あの香港の一度きりだったので、わたしにはかなりの貯金があった。
とは言え、それもいずれ尽きることはわかっている。貯えがなくなったとき、わたしは再び働く気になっているのか? もしも実子でないわたしのために、両親から年金をもらってまで生きるような事態になっては……そうまでして、生き恥をさらさなければならないくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。
退職を決めたとき、養父母は温かく微笑んだだけだった。
「あんたが決めたんやったら、そないしぃ」
幼いころからそれが不満でもあった。
「ヨシダさま」
自分の名が呼ばれ、立ち上がる。金額を確認させてもらう。礼を告げて局舎を出る。
車の運転席に座る。ため息が出る。かばんを助手席へ放り投げ、ハンドルを両腕でかかえ、うつむく。また、心が堕ちていく。
少し目を上げてフロントガラスを見る。香港の空港を思い出す。あの夜もとても暗かった。五メートルくらいあるガラス窓に大量の雨が絶え間なく打ちつづけていて、水槽のなかの小魚になったような気分になった。
今は午後だから、外はあのときほど暗くはない。だけど、まるで粘性の高いゼリーのように、フロントガラスを雨が覆っている。
なぜか、安心する。
ふと……「母胎回帰」ということばが浮かぶ。
母胎。
ナオちゃんはずっと、わたしと話をするのを避けている。
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