9 原稿用紙7枚

 その数日後。わたしは車の運転が苦手な養母と、運転免許を持たない養父を乗せた軽自動車で、神戸市長田区にある、養父の実家へ向かった。わたしが生まれる前にはすでに亡くなっていた、養父方の祖父の、お盆の法要なのだ。

 養父の母と、弟、妹がそれぞれ独身で住んでいる。その家へ行く途中、阪神高速を走りながら、阪神・淡路大震災のときのことを思い出す。

 あれはわたしが大学三回生の一月だった。後期試験が行われる日でもあった。羽曳野の古い文化住宅の柱にはひびが入ったようで、余震のたびにぐらぐらと、二階の床は揺れた。

 朝十時ごろからだったろうか? 長田の町で火災が発生しているというヘリコプターからの映像がテレビに流れた。それを見たわたしは、祖母を思った。

 もうだめだ!

 祖母に会うことは二度とできないんだと思うと、失恋したときともまた違う、のどの奥のほうからうめくような嗚咽が、長いあいだ止まらなくなった。

 しかし、祖母は無事だった。一緒に住んでいた養父の妹や弟にも、けが一つなかった。家にも損傷はなかった。長田区でも北のほうだったのが幸いしたらしい。

 その春休み、わたしは実家へ戻った。羽曳野のアパートに戻るとき、まだ電車も全線開通しておらず、JR兵庫駅から祖母の家へ向かう道にも通行止めになっている箇所がたくさんある中、祖母の家を訪れた。実家の最寄り駅近くにあるスーパーで買った、冷凍のグラタンを三つ土産にしていた。祖母がグラタンを好きだと、養母から聞いたことを覚えていたからだ。

 養父の妹や弟はすでに仕事へ行っていた。祖母が一人でちょこんとこたつに座っていた。背中が丸くなっていた。普段から声の小さく無口な祖母だったが、このときは、小声ながらもたくさんの話をしてくれた。

「年やさかい、毎日風呂に入らんでもかまへんねん」

 そんなことを言って、歯ぐきの発達した口内を見せて、笑った。

 わたしが郵便局で勤めるようになってからは、「敬老の日ゆうパック」というのに対し、局ごとのノルマがあった。それに貢献しなければという気持ちもあり、祖母を思うと震災後のあの笑顔が思い出され、わたしは毎年祖母にぬいぐるみを贈っていた。

 わたしが退職して以来、養父の家族とは初めて会う。お坊さんが帰ったあと。みな何かを察してか、辞職の理由は訊いてこない。叔父だけが明るい声で、

「スミちゃん、今何してるん? ヒマちゃうかぁ?」

 とのんきに言った。

 すると養父が自慢げに、

「こいつ気象予報士になるんやで」

 と笑う。

 養父はいつも、わたしについての些細なことを、心の底から誉めてくれる人だった。この人と血がつながっていないことが、いちばんわたしを苦しめたといっても過言ではない。だから、白い部屋から訪れたあのマンションのダイニングで、実父からは徹底的に疎まれはしたが、実の祖父が養父と似ていたことは、わたしには一つの救いであった。もしかしたら、自分に流れている血はそれほど悪いものでもないかもしれない、と。

 時間だけはいくらでもあるし、新しいできごともほとんど起きないので、印象的なことを、まるでキリンの咀嚼のように、何度も思い返しては、反芻しているのである。

「気象予報士って……あれ難しいんやろ? でもスミちゃん、高校もええトコ行ってたもんなぁ」

 叔母が細い目で笑う。叔父も叔母も養父とは似ていない。祖父のことは知らないが、養父は祖父に似たんだろう。養父が一番ハンサムだということは、とても嬉しい。

「勉強してるだけで受かるって決まったわけやないですから……」

 水を差す、というか、自分では謙遜のつもりなのかもしれないけれど、こういうときに決まって出鼻を挫くのが、養母の役目だった。

「がんばりや」

 祖母が小さな声で、しわだらけの黄ばんだ顔で、にこにこと笑ってくれた。

 わたしはまた泣きそうになる。

 この人も本当の祖母ではない。

 なのに、震災のあとで届けたグラタンも、日ごろ食の細い祖母には食べきれないかと思われていたのに、大喜びして平らげたとか、会うたびに、敬老の日に贈ったぬいぐるみを大事にしてくれているとか……本当の祖母だと思っていた。祖母はこの人以外考えられない。母方の祖母よりも父方の祖母のほうが、わたしには祖母らしく思えていた。

 そのあとは、養父とその弟とが、仕事の話を始めた。二人はかつて同じ会社で勤めていた。叔父は長田から播磨町まで、昔は原付で通っていたこともあるが、そのころは車で通勤していた。まだ現役で働いているので、養父の昔の部署や、部下の様子を話し合っている。

 わたしは、みんなが集っている奥の部屋から、仏壇のある表の部屋へ移る。かばんをそちらに置いていたから、用事のあるふりをして、逃げた。

 養父方の祖父は、わたしが生まれる前に亡くなっていた。だからわたしの守護霊――そのようなものが本当にあるとするのなら――は、きっとこのおじいちゃんなんだ、と、根拠なくいだいていた希望も、もはや完全に燃え尽きてしまった。

 いとこのいないこの家系。盆と正月に訪れるたびに居場所がないと感じていた。

 ここに居てもいいですか?

 仏壇の上に飾られた、祖父の遺影に尋ねた。無論返事はなく……わたしを救出してくれる何かの気配は、この惑星の地表も地底も対流圏や、さらにそのずっと上層の熱圏まで飛んで行ったところで、どこを探してもないように思えて来る……。

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