1 原稿用紙6枚
「あのころ」を、何年前と計算すればいいのか、わからない。
ともかくあのころ、一九九九年六月、二十六歳になる五か月前。わたしは、大阪市内にある郵政省――まだ公社化も民営化もされていない、国営のころだ――の寮で一人暮らしをしていた。幼なじみで派遣会社のコーディネイターとして働く田中志麻(たなかしま)と、盆休みを利用して香港へ旅行することになった。初めての海外旅行で、パスポートを取得しなくてはならず、わたしは五月の終わりに、兵庫県播磨町の実家へ帰省した際両親に、戸籍抄本を取り寄せて、寮に送ってくれと頼んでいた。
勤めていた郵便局はとても忙しく、午後五時半の定時に局を出られたことは一度もない。寮から職場までは自転車で約三十分。帰宅するのは毎晩午後八時前後だった。
そんな職場だから、三月末に出て行った男性の送別会と、入れ替わりに入ってきた女性の歓迎会は、六月になってようやくおこなわれた。
歓送迎会の夜。帰宅したのは午後十時を過ぎていた。部屋に戻ると留守番電話にメッセージが届いていると、楕円形のランプが赤く点滅している。寮の浴室は共同で、十一時までしか使えないので、留守電を確かめずに風呂へ向かった。
風呂から戻り留守電を再生する。実家の母からだ。
「何しとん……きょうに限って……帰ったら、何時(なんじ)でもええから電話してきてな」
日ごろは午後九時には眠る両親だ。しかし「何時でもええから」と言っている。
わたしは家へ電話をかけた。母が出た。
「戸籍抄本取ってきたんやけどな……」歯切れが悪い。気が短いわたしは、眠いし、早く言えやと苛立つ。「あんたももうおとなやから……ほんまはな、あんた、うちの子と違うねん。ナオちゃんの子やねん。ナオちゃんは前に違う人と結婚しててな、あんたを妊娠してるときに離婚してん。それで、もう堕ろすことができひんかったから『仕方なく』生んで、子どものなかったウチらが育てることにしてん」
ナオちゃんというのは、母の妹だ。母方の親戚は、ナオちゃんの娘たちもわたしの両親を「トシさん」「みっちゃん」と呼んでいた。
気象を勉強した今、自然現象というものが地球という生きものの生存の証だと理解しているわたしが、こういう表現を用いるのは不本意なのだけれど、このときのこの気持ちは「地震」としか喩えようがない。崩れるはずがないと信じていた「地盤」、「両親」というものが、その電話のやりとりや、その後郵便で届けられた戸籍抄本に書かれた「養女」という文字によって、あまりにもあっけなく、事務的に、破壊されてしまったのだ。
電話をどうやって終えたのか、記憶にない。
そのあと一、二か月、わたしは無意識を混乱させていた。そうして「感情の発現」というのは、過去の経験にもとづいているものだということを知った。これまでに体験したことのない事態に直面したとき、自分が何を感じているかを明確に捉えることができず、ただただ混乱しつづけるしかなかった。
郵便局の窓口で、ベビーカーに乗った赤ちゃんを連れた若いお母さんを相手に、学資保険の説明をするとき、マニュアルに沿って話を進めるならば、
「高校を出たときに満期を迎えてそれでおしまいというのではなく、その後(ご)大学に進学された場合のためのことも含めて、今のうちから計画的に資金を貯えていく方向でお考えになられることをお勧めします」
と言わなければならない。
そんなとき。自動的に口を動かしながらも、無意識の混乱が、発達する積乱雲のように顕在化してきて、
「わたしは実子でもないのに、私立の四年制大学に進み、一人暮らしまでさせてもらった……なんてことをしたんだろう」
という鈍重な自己嫌悪が、心に深く、大きな傷を刻んでいくのを実感した。
相続の説明をするとき、これも平均すると週に一度はあったから、伝えるせりふは覚えていて、お客さんが見せるコンピュータが印字した戸籍謄本、除籍謄本、腹戸籍、住民票などを指さしつつ、養母の浅はかさを怨まずにはいられなかった。
確かにあの電話の中で母は、
「一生あんたには隠しておこうってみんなで決めてたし、近所の人らからも告げ口されんであんたはこれまでラッキーやったのに。香港なんか行くって言うからこんなこと言わなあかんようになってもたんやで」
まるで、わたしが悪いことをしているかのような言いかたをした。
実母であるナオちゃんも、銀行で働いていたことがあると聞いたことがある。窓口の職員が相続について詳しいことくらい、容易に想像できるはずだ。
「一生隠し通せる」
と思っていたということは、わたしには、
「死に逃げ」
としか思えない。
何がラッキーやねん。
バカにするのもいい加減にせぇよ。
そんな憎しみも、どんどん肥大していた。
混乱が終息する予感は、まったく感じ取られなかった。
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