第2話 SEVENTH HEAVEN

 ――高校を卒業して早二年。


 気が付けば、私はもう二十歳になっていた。

 二十歳。にじゅっさい。はたち。せいじん。どれもあまりピンと来ない言葉。本当に私は二十歳になったのか、成人したのかと未だに信じられないでいる。

 大学の先生や親は今の私のこの歳を、「人生の岐路」と呼んだ。就活まであと一年。「あなたの努力次第で、人生を大きく変えることが出来る」と。「あなたの選択によって、未来は大きく左右される」と。


 でもそんなことを言われたら余計に何が何だかさっぱり分からなくなってくるというのに、先生も親も本当に無責任だと思う。確かにこれからの人生は私が決める。けれど、今の自分や将来の自分が果たして一体何がしたいかなんて直ぐに答えが出るはずもないし、むしろ直ぐに出すべき話ではない。こんなの焦って考えるべき話ではないのだ。けれども、先生や親は早く決めろという。

 正直なところ、もうお手上げ状態だった。完全に人生迷路のど真ん中。そんでもって半分諦めモード。いわゆる、人生に詰んでいる、そんな時だった。


 私は街の交差点で偶然、彼と出会った。


 彼、藤堂拓海(とうどうたくみ)とは、保育、小学、中学、高校と、十八年間ずっとずっと一緒だった。

 家も隣同士で、小さい頃はよく彼と泥まみれになりながら、一日中空き地や公園、時には商店街など、あちこちを走り回ったもので、本当に私たちはまるで兄妹のように仲が良かった。近所の人も口を揃えて「幼馴染というよりは本当に兄妹みたいね」と話すほどの仲だったとか。


 最初は私と同じくらいの背丈だった彼。

 昔は私より弱くて、よく近所の年上の男の子にいじめられて、わんわん泣く彼をなだめるのが昔の私の役目だった。

 そんな彼は小学、中学、高校と、歳を重ねていくにつれ、驚くほどどんどんとたくましくなっていった。いつの間にか背も伸びて、高校二年の頃には私と彼の身長差は三十センチ以上にもなっていた。どんどんとかっこよくなっていく彼。まるで私だけが置いていかれるようだった。いつでもどんな時でも笑顔を絶やさずに、決して人が傷つくようなことはせずに、ただひたすらに自分の夢を必死に追いかける彼。

 私には到底、叶いっこなかったのだ。

 

 もちろん、彼はよく女の子にモテた。

 バレンタインデーの日なんかは、他の男子たちよりもはるかに多くのチョコを女の子から貰っていたし、よく個人的に呼び出されたりもしていた。もちろん、クラスメートだけでなく、後輩や時には先輩にも告白されることもあったらしいし、彼はクラスの女の子、いや、全校の女の子にとって憧れの存在だったのかもしれない。


 だけど不思議なことに、彼は一切誰とも付き合うことはなかった。だから毎日、彼と会話を交わしている私は、女の子からよく羨ましがられたし、時には妬まれることもあった。

 たまに「もしかして二人って付き合ってるの?」と聞かれることもあったけど、もちろん彼とは幼馴染ってだけで、付き合っている訳でもなかったし、何よりお互いにそういう特別な感情を持っていなかった。

 

 ところが、私たちが高校三年生となり、受験を終え、お互いに進学先が決まった時、そこで私は初めて「彼の大切さ」を実感し、同時に私は彼と離れ離れになることを恐れ、ある日思わず彼にしがみついて泣いたのだった。


 「亜紀は一人なんかじゃないよ」


 彼は優しくそう言い、泣く泣く私の頭をそっと撫でてくれた。斜め上からそっと優しく私を見下ろして、止まらない涙を一粒一粒、丁寧に拭き取ってくれた。優しく、温かな手で、おでこを撫でてくれた。

 けれども涙は止まらなかった。そんな優しい顔をするから、そんな声で私の名を呼ぶから余計に涙が止まらないんだと私は彼を責めた。それでも彼は何も言わなかった。ごめんとも、そうだねとも言わなかった。


 それは彼の優しさだった。

 それが分かるから、分かってしまうから、余計に辛くて苦しくて、涙が止まらなかった。自分でも驚くほどに嗚咽して、もう脱水症状を起こして倒れてしまうんじゃないかと思うほどに泣いた。

 彼の肩を涙でびしょ濡れにしてしまった私は、泣きながらクリーニング代払わなきゃなとか意味不明なことを考えてたのを今でもよく覚えてる。


 ずっとずっと拓海と一緒に居たいと、初めて心から強く思った。私は十八年目にして、ここで初めて彼に恋をしたのだった。

 けど、分かり切っていたけど、それは決して叶わぬ恋だった。彼の夢の邪魔はしたくない。だからこそ私には絶対に言えなかった。「拓海が好き」だなんて、口が裂けても言えなかった。それが彼に対する私の精一杯の愛だった。変な話だけれど、それが私のわがままだった。


 

 ――あれから、約二年。


 結局、彼に自分の本当の気持ちを、本音を、私という名の全てを伝えられぬまま高校を卒業し、大学生になった私はその日、街の交差点でばったり彼と出会った。


 最初は見間違いかと思ったけど、よくよく見ると、やはり彼、藤堂拓海だった。


 赤信号。


 道路を挟んだ向こう側に立つ彼の姿。久々に見た彼は変わった。どうやら少し、大人になったみたいだった。

 「世界中を飛び回って仕事がしたいんだよね」と以前話していた彼は今、大学に通いながら語学勉強に励んだり、実際に海外へ飛んだり、外国人の友人を沢山つくったりして、夢の実現へ向けて全力で頑張っているんだという。それも共通の男友達から聞いた話で、何も直接本人から聞いた話ではないし、今どこで何をしてるかまでは何も知らなかった私。


 久々に実際にこの目で見た彼は確かに忙しそうだった。スーツのような締まった服を着て、彼は忙しそうに電話に答えていた。髪の毛も整髪剤でしっかりと整えられていて、とても現役大学生のようには見えなかった。

 あの頃の彼とは少し違う彼が、そこには居た。けれど笑顔だけはあの頃から何も変わっていなかった。しわくちゃのあの笑顔が私はたまらなく好きだったな、なんて。


 赤信号が青に変わり、人々が一斉に歩き出す。もちろん私も、彼も、人ごみに紛れて歩き出す。

 

 連絡を取ろうと思えば取れないわけでもない。連絡先はもちろん知ってるし、幼馴染なんだからお互いの実家の電話番号だって知ってる。けど、彼に甘えてしまう自分が怖くて、この二年間一切連絡を取らなかった私。


 一番近くて、一番身近な存在のはずなのに、一番遠くて、一番届かない存在。そんな彼とまさかこんな風にして出会うなんて……と、私は正直戸惑っていた。どうすれば、どうすればいいんだろうと。あぁ、


 「こんなところでも私は迷子なんだ」


 私は思わず空を見上げた。ビルに切り取られた四角い空を雲が気持ちよさそうに泳いでいる。私も雲みたいにフワフワしてたい。そしたら何処へでもいけるし、迷子になることもないんだろうな。なんて、思ってもみたり。


 でも私も前に進まなきゃ。いつまでもここで立ち止まってる訳にはいかない。歩かなきゃ、私は彼みたいに前へ向かって歩かなきゃいけない。


 私はそっと視線を戻すと、勇気を振り絞って彼のすぐ傍を通り過ぎた。彼は、結果的にはやはり気付かなかった。私に、気付いてはくれなかった。

 うつむいて歩いたから仕方がなかったのかもしれないけれど、それでも正直、ショックだった。だから私は一か八か、振り返って声をかけようと思った。「え? 待ってもしかして拓海?」「お久しぶり!」「今何してんの?」いくらでも声をかける手段はある。けど、私は次の瞬間にはピタリとその場から動けなくなってしまった。あの日、あの時、彼の肩で散々泣きわめいた時に香った彼のつける優しい香水の香りがして、私はその場に立ち尽くしてしまった。


 それじゃ……あの時のままじゃん。彼に甘えて、彼に泣きついて、彼を困らせて。それじゃ、二年前と今日じゃ何も私、変わってないじゃん。


 そう思うとまた目が熱くなって涙が溢れた。

 もう一度、そっと空を見上げ、様々な記憶や思い出をただ懐かしげに思い返す。それは涙でにじむ、けれど光煌く、青く澄んだあの空のような思い出。 

 いつも、どんな時も、私の頭に思い浮かぶのは、必ず決まって彼の優しい笑顔だった。彼の笑顔は今も昔も変わらない。ポカポカと温かい。まるで太陽のような彼の笑顔。きっと私は、今でも彼のことが好きなんだと思う。けれど、どれほど彼のことを想えば、彼は私の気持ちに気付いてくれるんだろう。振り向いてくれるんだろう。


 もしも、彼にこの気持ちが届くのならば、伝わるのならば、私はそれだけでもう十分。例え彼の答えがNOだったとしても、何だったとしても、私はそれでいい。

ただ今度会うときは、正々堂々と自信を持って会えるような、そんな女になっていたい、と私は強く思った。


 涙を拭って、再び歩みを始める。彼に背を向け、私は歩き出す。

 前へ向かって歩き出す。


 ――はじけて消えちゃおうかな。 なんちゃって。

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