喪失感
いつからか身に覚えがない喪失感があった。ぽっかりと穴が空いている感覚で、異変を示すもの。
私はそれに目を向けなかった。
最近できた欠けた記憶は自分のことだ。だからイルスの言う通り、無理して思い出さなくてもいいことではない。
そう思っていた。
ガタリと物が地面に衝突した音があった。イルスを見れば、手から工具が滑り落ちたようである。
「もう、か」
私は声をかけることを忘れた。
その場には自分一人だと思っているイルスは手をじっと見つめ、直さないと、と呟いている。
その姿に頭の中で警報が鳴り響いた。
何を直すのかは聞けず、言い表せないような不安を持って何日も過ごした。
そして次の日、新たな喪失感が生まれた。それが何なのか、直ぐに察しがついた。
「不安だ……」
記憶が朧気な状態で、その感情が圧倒的に足りていない。不安を抱かせたイルスの姿の記憶は消えていなかったから、私は気付けた。
「嫌だよ、こんなの……っ」
自分のことだけの記憶喪失なら見知らぬふりはできた。だが彼に関してのものは駄目だ。なくしたくはない。
そんなとき、ふわりと体が浮いた。
「悩まなくていいんだよ」
イルスは私を抱きかかえて、歩き出した。
行き先は仕事場だ。
簡易ベットに下ろされるが、私は彼の服を掴んでどこかに行こうとするのを留めた。
「ミル、」
「本当は、ずっと早くから気付けたの」
喪失感の正体というものが何か、それは注意深く記憶を巡らせれば分かるものだった。
だが、イルスがそうはさせなかった。私も楽な方に逃げた。
不安がないというのは、なんて心地よいものだろう。危惧することが何もない。幸せに浸っているだけでいい。
だけど駄目だ。
「イルス、もう止めて」
「……何がだい?」
「惚けないで。もう分かってるでしょ?」
イルスは眉を下げ、しゃがみこんで私を見上げた。
「僕は君がいるだけで十分なんだよ」
「私はそれだけじゃ足りない。あなただけに苦労をさせたくない」
互いが互いを想ってのことなのに、なぜ相反してしまうのだろうか。
次のこともそうだ。
私は不安を抱くことになっても、イルスへの想いは失いたくない。だというのに、記憶喪失になった。
これをおかしいと思わないのは、あまりに愚かだ。
だから、今さら惚けたって無駄なのだ。
ここ最近の私の記憶が欠落しているのは、辛いことを思いだしたくないからではない。人為的なものだ。
イルスがやったのだ。
「消さないで……。私のあなたへの想いを、あなた自身でこれ以上、」
消さないで、という二度目の言葉は部屋を透き通っていった。
イルスは俯いており、どんな表情をしているか窺えない。
「終わりにしよう、イルス」
「それは駄目だ」
イルスは手首を押さえこみ、私の上にのし掛かった。
手足をばたつかせて抵抗するが、「暴れないで」と完全に動けないようベットの上に縫い付けられる。
「放して!」
「無理だよ。放したら、君は離れていってしまうじゃないか」
「そんなことっ!」
「違わない? でも終わりにしたいってことは、そういう意味だよ。……ミルは嘘つきだ。ずっと側にいるって言ったのに」
手首の痛さは想いの現れだ。
泣き崩れてしまいそうなイルスに、私は胸が苦しくなる。
そういう意味で言ったつもりではなかった。私は記憶を消す行為を止めて欲しかっただけなのだ。
どういった方法でかは分からないが、私の為にしてくれたことでもそれは独り善がりだ。私がそう強いてしまったものでもあるが、そうでなければ彼は私の記憶を思い出せないようにするはずがない。
「ずっと側にいるよ」
「……その言葉はもう信じられないよ」
イルスは上半身を起こしたので拘束が緩み、その隙に私は逃げようとした。
だが直ぐに取り押さえられる。彼はスタンガンを手に持っていた。
「大丈夫、痛みはないよ。ただ一週間前の日からやり直すだけ」
それはつまり一週間の記憶を丸ごと消すということだ。
不安を持ち始めた頃のものも失くなり、また私が幸せを享受される日々に戻る。
そうすることにイルスは慣れているようだった。
不安を思い出さないようにするには、私が眠っている間で十分であろう。起きて抵抗される面倒はしなくていい。
であるのに迷いがなく手慣れた様子であるということは、
「イルス、これは何回目なの……? このやり取りを今までに何回繰り返してきたの……っ」
「ミルは知らなくていいことだよ」
悲痛な面持ちで言っても、引き下がったりなんかはしない。
私は叫ぶ。
「あなたが苦しんでいる限り、私は何回記憶を失っても諦めないから!」
彼の為ならば、いくらでも挑んでやる。
この愛しているが為の表明はイルスを嬉しそうにさせた。その笑みを最後に、私の体に電気が走った。
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