朧気な記憶
「イールースっ!」
「なんだい? ミル」
「えへへ、嬉しくて。こうして元気に動けるようになったのもそうだし、イルスと触れ合えるのも!」
私は病から立ち直った。原因不明の病であったが、奇跡的な回復を見せたらしい。
私だけでなく、イルスもとても嬉しそうだ。
「でもまだ本調子じゃないんだ。無理しては駄目だよ」
「分かってるよ。イルスは本当に過保護だね」
「そんなの当然だよ。僕は君が心配なんだから」
「それは私もだよ。だってイルスは――――」
「……僕が?」
「えっと、なんだっけ?」
私は何を言おうとしたのだろうか。
靄がかかってしまったかのように、思考が朧げである。無理に思い出そうとすると、ズキリと痛み走った。
体調がまだ優れてないこともあってよろけると、イルスが支えてくれる。
「無理をしなくていい。きっと辛い記憶だったんだろう」
「そう、なのかな……?」
「思い出せないということは、そういうことだと思うよ」
またある種の記憶喪失で、原因はイルスの言う通りかもしれない。
私は病にかかっていたとき、大分弱っていた。体が日に日に自分の思うように動かなくなっていって、ベットで寝たきりとなる程手足はずっしりとした状態だったのだ。
ある日突然、そうなって彼に世話をかけてしまうことは心労となったのだろう。
「私ばっかり迷惑かけてごめんね」
「いいや。お互い様だからね」
負担はイルスの方が大きいのに、気を負うことがないようにかそう言ってくれるのは、優しい彼の美点だ。
これから速く体調を万全にして、彼の好きな料理をいっぱい作ってあげて恩を返そう。
イルスに頭を撫でられながら、私は戻りつつある安穏とした日々を想った。
*
窓がないので自然の光源というものは一切入らない、密封された空間だった。雑多に積み上げられたものにより、人工の光を遮られ暗晦としている様は鬱々たる感情を抱かせる。
小さな部屋を埋めるものは機器関係で大小様々にあり、踏める床面積を点在するだけにする数多さは一層窮屈とさせた。
叩けば埃が舞うだろうその環境は不愉快以外にほかならなく、妻が見たら絶句すること間違いない。
そんな部屋に内在する僕はパソコンと向かい合っていた。一心不乱にある研究の成就を志してキーボードを叩くが、一向に捗らない。そんな研究に喘いでいると、一通のメールが届いた。
差出人が誰かというのは限られている。数名頭に浮かぶが、この場において余計なことは考える暇はない。
それに時が経てば先方が勝手に引き継ぎ変わっていく優秀な相手だ。無用な情報は送ってこないので、名前を思い出す必要はないという事情もある。
「今回も駄目か……」
送られた情報は、またもや期待を裏切った。
世間の技術が僕に追い付いていない。
その事実に焦りと失望をもたらせるが、もう慣れたものだ。
僕は自分の過去の研究結果を添付し、指示を出す。仲介者によってそれを発表させているが、かなり危険な行為だ。
命に関わるものではないが、ミルとの安穏とした日々を壊すものである。
僕は彼女との生活を続けたい目的の為に、そんな過程など起こすつもりはない。研究者が僕の高次な技術を欲しがり辺鄙な家にまで押し寄せ、ミルとの時間を減らしたくないのだ。
だが、僕一人では成し遂げるにはあまりに時間がかかるだろうから、四の五と言ってられない。世間の水準より少し高いレベルを発表させ、その結果僕とは異なる考え方や技術があったら報告させる。
このループはいつになったら、終わりを迎えるのだろうか。
僕の行動原理は彼女である。こうして仕事場に通じる隠し部屋で研究をするのもそうだ。
始まりと言える交通事故から、僕が為出かしたことによる責任をとらなければならない。それに彼女の願いにもなった。僕は自分の行いのせいでなった、彼女の心労を軽くしなければならない。
だから、記憶を弄った。
ずっと側にいて欲しい願いの為にアンドロイドの体にさせた僕が、思い悩ますだろう記憶を朧気にした。
完全に記憶を消すのもまた、彼女にとって苦悩であった。そのときの反省を生かしフィルターをかけるにとどめたのだが、今回は成功のようである。
「……そろそろ仕事場に戻らないと」
時間が午前四時を回ったのを見て、そう判断する。ミルは早いときには五時には起床し、僕が寝落ちしていないかどうかを確認するのだ。
今日は丁度切りがよいので、自室のベットに行くのがいいだろう。
隠し部屋を出て、鍵をかける。
そしてその扉の痕跡を本棚で巧妙に隠す、その時。ぐらりと世界が横に傾いた。
「時間切れ、か」
ゴンッと床と衝突し、自分の最期が来たのだと悟る。あまり睡眠をとっていなかったのが一番の原因か。
自分の体はミルと比べて眠る必要を少なくしている。だが、違和感をもたせない為に人間に近い作りとしているせいで、完全にゼロにするには無理だった。
前回も同じ過ちをしてしまった。そのせいでミルには長い時間、一人にさせることになった。
今回はどうだろうか。
僕はしまっておいた鍵を取り出し、目立つところに置く。
そこで限界だった。
目の前がブラックアウトし、次に目に入ったのは彼女の泣き顔である。
「ミル」
「イルス。あなた……アンドロイドなの?」
彼女は気が動転していた。
それでも隠し部屋にある製図を見て、僕を直したのは感嘆すべきことだ。
「もしかして、私も……っ?」
手を差し伸べると、知りすぎてしまった彼女は素直に腕に包まれた。僕は自分がアンドロイドだとは気にしないが、彼女は違う。
「大丈夫、これは悪い夢だ。目覚めるときにはもう忘れるよ」
一睡もしていなかったのだろう。
僕がおやすみ、と言った頃には微睡みの先に入っていった。
「さて、作業しないと」
アンドロイドの体というのは、人間よりも不便である。長年使っていれば故障する。
点検し部品を交換すればいいのだが、頭部は精密な作業が求められるので、自分では弄ることができない。
「また側にいられるね、ミル」
僕を直し、安穏とした日々を続けられるということは、愛してくれている証だ。僕は寄りかかるミルに頬を緩めた。
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