希望
どうやら僕は記憶喪失のようだった。
階段から落ちて、運悪く頭を強く打ったらしい。
「これでミルとお揃いだね」
「……馬鹿」
不安がる彼女に微笑めば、どうにも上手くいかない。怒るかと思ったが、瞳を潤ませて微笑する。
僕の記憶喪失も、思い出や体験に関わるものであった。だが、ミルよりも記憶の損傷が激しいらしい。
互いに覚えている範囲内で確かめ判明すると、ごめんね、となぜか彼女が謝った。
僕からしてみれば、今君と共にいるだけで満たされ幸せなのだ。
ミルとの思い出が消えてしまったのは勿体ないが、僕は記憶が失ったとしても彼女が嘆く程に問題はあるとは思っていない。
だから、ミルが気に病まなくていいのだ。
当初あった体の重さは消えたので、身体はすっかり健康である。記憶も技術を身につけた頃のがはっきりとあるので、仕事に殆ど影響はない。
それに生きてるだけでも十分なものだ。
だというのに、彼女は心労を患わせた。
日に日に体を壊すことが多くなっていき、最終的にはベットで横になって一日中を過ごすまでとなっていく。
そんな衰弱していく彼女を、僕はただ見ていることしかできなかった。
*
「イルス……いる?」
「うん、僕はここにいるよ」
ミルの手を握る。僕のと比べれば小さく、弱々しい手だ。
そっと慈しむようにすれば、「もっと強く」と懇願される。まるで存在を確認するかのようだ。
僕はミルの手を潰さない程度に指を絡ませて握った。彼女は満足したようでそっと微笑む。
「……ごめんね」
「ミルが謝る必要なんてどこにもないよ」
「でも私の世話、大変でしょ?」
「君が元気なときは、僕を世話してくれただろう? これでおあいこだよ。それに、僕はミルの世話を甲斐甲斐しく焼けて嬉しい」
「ふふ。今だに過保護は健在なんだね。私、ちゃんとお返ししたかったな……」
「きっと僕が好きでやってたことだよ。だから、そんな言い方しないで」
まるで、もうすぐ死んでしまうみたいじゃないか。
それを言葉にするのは事実になってしまいそうで怖く、できなかった。ミルはそんな僕の内心を読み取ったようで、儚く目元をやわらげた。
「ねえ、イルス。私、お願いがあるの」
顔を少し動かし、叶えてくれる? とミルは僕を静かに問うた。
「君が望めば何個でも、僕は叶えてあげるよ」
「ありがとう。でもね、一つでいいよ」
ミルは握られていない手を持ち上げた。多分、自分だけで僕に触れようとしたのだろう。
だが胸の高さ程度しか持ち上がらず、諦めてシーツの上に落ちた。
「もし、私が死んだらね……火葬してほしいの」
「そ、んなこと、言わないでくれ……っ。まだ若いんだ。君が、ミルが死ぬはずない」
彼女は曖昧な表情をした。
僕は彼女がどんな想いで願いを伝えたのか、全く分からなかった。
ミルは原因不明の病だった。心労もあるだろうが、衰弱するにはあまりに時間が速い。
彼女は医者に診せなかった。
森の奥深くにあるこの家に呼ぼうとしても、これは医者にどうこうできるものではないと頑固に拒否する。
彼女は病について、なんとなく予想はついているようだった。だが診せる前からそう決めつける様子は、まるで自分の死を願っているように見えた。
さっきとは違い、ミルははっきりと訪れるだろう死に関して述べた。
瞳に浮かぶ光が弱まっているのを見て、僕はよりいっそう死を想定させる。
「……ごめんね。また守れそうにないや」
二日後、ミルは看取られながら死んだ。
最期まで彼女は僕に謝罪し、逝った。
*
絶望とは正にこういう状態のことを言うのだろう。
昏く淀んだ心は僕を無気力感とさせ、何日もミルだった亡骸の前で留まっていた。
「……そうだ、願いを叶えてあげないと」
本当は火葬なんかしたくない。
ミルの遺体は綺麗な状態であった。生きているときと何ら変わりはない。
眠っていると言われたら簡単に信じてしまうぐらい、柔らかな頬も流れるようかな髪も平常だ。
だが、伏せられた瞼はもう開くことはない。
それでも僕はずっとその姿を保存しておきほたいぐらいに、彼女は彼女のままでいる。
炉はあった。仕事用で使っていたもの。
こんな金属を溶かしたところでなんて僕の望むところではないけれど、町の住人に頼むのは彼女の願いに適切でないだろう。
誰がとは請われなかったが、僕に頼んだというのはきっとそういうことだ。
ミルを焼べるときが来た。
彼女の身なりを綺麗に整え、そして最後に口づけを交わした。
「さようなら、愛しいミル」
炉内の温度を上げるには扉を閉めた方がいいのだけど、僕は彼女から一秒も目を離したくない。
だがそういう訳にもいかないので、最初の少しだけと眺める。
彼女を弔ったら、僕も後に続こう。
ミルの記憶喪失の原因である事故の際も、似たような事を考えていた。
自動車と衝突にあい、意識不明だった彼女。
その辺りの記憶の欠落は激しいのだが、鬱でいた時間が長かったのか断片であるが覚えている。
ああ、やっぱり記憶はあった方がいい。
記憶の中のミルが辛そうなものばかりであるのは、とても心苦しい。
それに焼けていく彼女の姿なんて特に――――
「これ、は……」
僕は見た。
そして慌ててそれを確かめようと、火傷し爛れるのも厭わずに炉の中の彼女を取り出した。
「は、はは。確かに、医者じゃあ直せないや」
焙ったせいでミルの肌は殆どが黒く変色しており、一部は体の内部が現れていた。
ケーブルやネジなどの部品、金属板といったものが見え隠れしている。
それは人間でないことの、機械の体であることの証明である。
ミルはアンドロイドだった。
僕は満面の笑みを浮かべた。
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