絶望
「イルス、イルスっ!」
体を揺するが、やはりピクリとも反応はなかった。それ以外はいつも通りのイルスであるというのに。
日に当たらないせいで白い肌だとか、癖毛でどこかしらはねている髪だとか、細く見えるがちゃんと男らしい力のある腕だとか。
いつもの変わらない彼なのだ。
ただ私の心境のせいでか、生気がないように見えるだけで。
階段の元にいることから、足を踏み違えてか転げ落ちたことは予想がついた。
外傷はない。足を捻ったり骨折した部分も見つからない。だが、頭部を打った覚えがあるかもしれなかった。
「確かめ、ないと……」
深い恐怖があった。
だが、このまま何もしない訳にはいかない。
首に手をそえ、脈をはかる。一回も数えられない。胸に耳を押し当てる。いつものドキドキさせている速い鼓動は聞こえてこない。
彼は心臓の機能を停止していた。
「……嘘」
理解したくない。納得できない。受け入れたくない。認めたくない。
「こんなの、嘘に決まってる」
胸の真ん中に手を押し当て、圧迫した。一定の速度で繰り返し、振動で彼が揺れる。
そして息を送りこんだ。
冷たい彼に熱が移ったのを感じ、私はそのことに希望を感じて何回も繰り返した。奇跡を信じ続けた。
だが、何も起こらない。
腕を酷使したせいでガクガクと震えており、痛みがあった。けれどもそんなことは些細なことだ。
彼を失ったことに比べれば、そんなちっぽけな痛みは掻き消える。
「あ、あぁ」
いない。
イルスの体を搔き懐くが、もう彼はこの世に存在しないのだ。
「ああああ、あああああああああッ!」
なんで、どうして、こんなことが―――――。
言葉となさない慟哭が、一人となってしまった居住地に響き渡る。
私はイルスが倒れている間、何をしていたのだ。もっと速く発見していれば、命を失うことはなかったかもしれないのに。
それに何回も彼に告げた言葉を、私は守ることはできなかった。
「ずっと、側にいるって言ったのに……っ」
もしかしたら予期していたかもしれない。最期は一人で死に行くことを。
だから、頑なに私の言葉を信じることはなかったのか。
「……イルス」
悲しい、寂しいといった具合ではなかった。
これは絶望だ。
今なら分かる。彼があんなにも過保護でいたことが。
「一人に、しないで」
もう彼だけの願いだけではなかった。
あなたがいない世界で、生きる意味なんかない。未来が想像できない。真っ暗だ。見通すことはできず、そうする価値も見いだせない。
死のうと思った。
彼の亡骸であっても、側にいてもらいたい。
衰弱死するのが妥当だろうと、より強く彼を抱き締める。
そして、気づいた。
「何、これ……」
イルスの柔らかな髪も含め、頭に触れたときだった。鋭利な何かがある。少し凹んでいる、その端に。
私はその正体を知ったとき、希望を取り戻した。
*
全身が錘がつけられたように重かった。長らく、微睡んでいたような気がする。
ぼんやりと天井を眺めながら、僕は身動きをして軋む体の調子を確かめた。
「イルス……?」
懐疑的な声だった。
僕は声の主の愛する妻を見る。
久しぶりな気がした。
真珠のような瞳も、小さくぷっくりとした唇も、さらさらと流れており日に当たれば煌めくような髪も、抱き締めれば腕の中に収まる体の小ささも何も変わらない。だというのに、不思議とそう思った。
「ミル、どうしたんだい? また僕は寝すぎてしまったのかな」
目を見開いたまま動かない彼女に、鈍い動きで近づいた。頬を撫でるが、それでも固まっている。
お人形になってしまったのかな? と表情筋をマッサージするようにぐにぐにとすれば、ミルの涙腺が崩壊した。
「ご、ごめん! 痛かった!?」
泣かせるつもりなんて毛頭なかった。
謝罪やら言い訳やらで慌てていると、暖かなぬくもりをもってぎゅうぎゅうと抱きつかれる。
「よかった、本当によかった」
譫言を重ねるミルが落ち着くまで待った。
身じろぎすれば、放さないといわんばかりに腕に力をいれてより密着される。
「もう平気かい?」
「うん。……ごめんね、服、涙でびしょびしょだ」
「着替えればいいだけだよ。それよりどうしたの?」
ミルは体をまた硬直させた。
でも声は聞こえているようなので、続きを話す。
「僕は知らぬ間に、君に何かしてしまったのかな」
仕事場に置いてある簡易ベットにいたことから、僕は仮眠とっていたのだろう。だが起きて早々、まるで僕に何かあったかのように、ミルの情緒が不安定な理由が分からない。
疑問で頭を傾げる。
そんな僕に、ミルはくしゃりと表情を歪めた。
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