兆候と到来
それは確かに兆候だった。
確かに私達のことを示唆しているものであり、これからどうしていくのか問いかける類いのものであった。
「あっ」
仕事場で、不意にイルスが声を漏らした。
適当な長さに切断する作業をしていた彼の方を振り向けば、慌てて手を後ろに隠している。
「どうしたの?」
「い、いや? 別になんともないよ」
のんびりなイルスが首を激しく横に振る様子は、明らかに嘘をついているのだと分かった。
「何? 怪我したなら見せてよ」
「違うよ。本当に何でもないんだ」
「なら証拠に手見せて」
「ほ、本当の本当なんだ。ただ、そう、世紀的な大発見に気づいただけ」
「ふうん。どんな内容?」
「それは、ちょっと忘れてしまったけど……。でも、一人でいれば思い出すかもしれない。僕は少し風にあたってくるから、ミルはここにいて。絶対だよ。危ないことをしては駄目だからね」
慌ただしく、最後まで手を隠して仕事場から去っていく。
「……大怪我じゃなさそうだし、まあ大丈夫かな」
イルスがいた場所からは血が落ちてはない。バッサリと指を切ったとかではないのだろう。
もしかしたら本当に世紀の大発見をしていたかもしれない。大分嘘くさかったが。
「……仕事の手伝いは危ないことじゃないよね」
イルスの仕事場は、いつも彼がいるときにしか入ることはできない。危険だから、とここでも過保護が働いているからだ。
だから仕事場におり目を見張らしている者がいない、ということは私にとってたいへん魅力的な状況だった。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、加工済みの部品を組み立てていく。実はだが、私も機械類に詳しかったりするのだ。
そもそもイルスとは仕事で関わりあって意気投合し、妻と夫の仲になった。今では記憶の欠落が決して小さくないこと、家事一般が苦手な彼なので主婦をしているが、暇ができさえすれば助手をしている。
小さなものがあわさり、大きなものに変形していくことは心踊るものがある。
イルスの帰りが遅いことをいいことに、私は組み立てに拘らず様々な作業をした。知られたら叱られてしまいそうな研磨もである。
ある程度やって満足したところで、さあ証拠隠滅するぞと意気込むが、もうバレることになった。
「ミル、危ないことしては駄目だって言っただろう?」
突然かけられた言葉に肩が跳ねた。
「えーっと……お早いお戻りで?」
「僕が君を一人にしてから、結構な時間が経っているけどね。―――さあ、僕に言うべきことはある?」
「楽しかった!」
イルスは目をぱちぱちと瞬き、しょうがないなと顔を綻ませた。流れるように抱擁し、頬に口付けを交わす。手で触れられたところは暖かくなり、自然と頬が緩んだ。
必死になって私に何か隠そうとするイルスの挙動のことは、さりげなく手を握りあわせて怪我がないことを確認した以外に特に気にかけることはなく終わった。後に後悔することになるのは、そのときはまだ知らない。
私は彼に身を委ね、その甘美さに酔いしれた。
*
私には過保護で、自分自身には無頓着なイルス。私を想ってのこと、自分を顧みないでのこと。
彼は私のことを厄介なぐらい過保護に心配してくれるのに、反対はさせてくれない。
よく考慮してみれば、それは不自然であるものだった。
夫婦とは互いを思い遣る関係である。
彼があまりに過保護に接してくるのなら、私もそれ相応……とまではいかなくていいものの、もっと気にかけてあげるべきであった。
ただそれは愛が足りないのが原因、という訳では決してない。愛は十分すぎるほど互いに重く、釣り合っていた。傾いていたのは、慮ることだ。
彼がそう仕向けさせ、私が怠慢としてそのままの状態で変化させなかったせいで起こった。彼の方が上手であり、私は享受されるだけの駄目な奴であったから起こり得た。
だが重すぎ、軽すぎた思慮であっても穏やかな日々は続いていた。表面上はそうだった。
いとおしい時間だった。
永遠に続いたらそれはどんなに幸せなことだろうと想像し、叶わぬ願いに苦笑してしまうもの。人の身には到達することなどできない、部相応なものだ。
だが限られた、永久でない命だからいいのだろう。そのときそのときを大切にすることができ、思い出を今度はなくさないで取っておくことができる。
記憶喪失の私にとって、彼が全てであり生きる意味だった。不安定なときに付き添い、励まして支えてくれた、愛してくれた彼が何よりも大切な人だった。
だから目の前にある事実というのはあんまりな仕打ちであり、酷なものであろう。
床の上に寝転ぶと判断するには、手足が投げやりすぎであった。息遣いによる音や動きは少しもない。
「イルス……?」
呼び掛けようとも、何も反応は示してくれない。彼は物言わなくなっていた。
私にとてつもない衝撃を齎すそれは、安穏とした日々に突如として到来した。
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