トラジディーは愛故に
嘆き雀
記憶喪失
それは私と彼の安穏とした、とある一日。
朝、小鳥のさえずりで目覚め、放っておけば食事を取らないでいる彼の為に朝食を作る。
晴れやかな日には洗濯物を干し、ごみ溜めと見間違える彼の仕事場を掃除すると、あれがないこれもないと言われて一緒になって探す。
自分で片付ければこんなことにはならないのだと文句を漏らすと、ごめんねと素直に謝られた。
そうなると弱いもので、安易に許すと整理整頓が苦手な彼に期待した改善はない。私が一方的に喧嘩別れを告げる。
だが、子犬のように寂しそうに見つめてくるからまた直ぐに許してしまい、食後の後にたあい無い歓談をする。
森の奥深くに住んでいるものだから他者からの刺激は滅多にない、ある人にとってはつまらない日常。
でも私はそんな日々を気に入っている。
彼がいるから、どんなことだって世界が色づく。
だが、惜しいことが一つあった。
あらゆる方法を試しても、何も結果は得られなかったもの。取り戻せなかったもの。
きっと大切なもので、失いたくなどなかった。
彼がそのままでいいんだと言わなければ、今でも探し続いていただろう。
そう容易に想像できてしまうからこそ、だから余計に私は苦しむ。
自らが記憶喪失であることに、私は痛惜するのだ。
*
私は一部の記憶が思い出せないでいた。
それは過去の思い出や体験したもので、頑までに思い出そうとしても何一つ欠片も得られることはない。
まるで、欠落した記憶が最初からなかったかのようだ。そう感じさせる類いの記憶喪失は、私に言い寄れぬほどの不安をもたらす。
そしてそんな不安を小さくし、紛らわしてくれるのはいつだって彼だ。
「イルス、起きて。もう、いつも仕事場で寝ないでって言っているでしょう?」
「ぅん…………ミル?」
「そうだよ。ほら、とっとと起きる!」
「わあ!?」
椅子の上で眠っていた彼―――イルスは、大声により飛び起きた。頬には顔を机に押し付けて寝ていたせいで、赤く成り果てている。
間抜けだと思う反面かわいいと思ってしまう私は、かなり彼にぞっこんだろう。
イルスは同居人である以上に夫である。
虫食い状態の記憶であっても、共に将来を誓いあった仲ということを私は忘れていなかった。
「えっと……おはよう?」
「おはよう、イルス。でもね、もうお昼だよ」
「少し、寝過ぎてしまったなあ」
「少しどころか、大分だけどね」
穏やかなというよりはのんびりなイルスに「ご飯食べる?」と聞けば、「うん」と幼い子どものような返答をされる。
「昼食はね、ピリ辛なソースを使ったサンドイッチだよ」
「……僕、辛いの得意じゃないんだ」
「知ってるよ。でも、目が覚めるでしょ?」
意地悪が成功し、にひひと笑う。
ちゃんと忘れていない。それは覚えている。
「それにしても、また部屋を散らかしたね」
イルスの仕事場は、びっしりと書き込まれている紙や機械の部品が机の上や床で散乱としていた。
じーっと見つめると、彼は分かりやすく視線を横に逸らす。
彼は機械系の仕事をしていた。
住んでいる場所が森の中である以上、一人で作業できる内容のものに限られるが、主に設計や加工などを請け負っている。
彼は機械に関してはなんでもできる、専門家みたいなものだ。町にいたときは多くの者から頼りにされていて、本来ならこんな場所にいていい人材ではない。
だが、今はこうして隠れるように森の奥にいる。
そうなった経緯は思い出せない。ちょうど虫食いの穴となっている部分なのだ。
疑問を抱き尋ねたことがあるけれど、「静かな場所で暮らしたかったんだ」とあながち嘘ではないが本当のことは言ってはくれなかった。
多分、私を想ってのことだろう。
いつからかは分からないが、記憶の損傷が激しい時期に移住はしている。途切れ途切れの私の記憶から、そう判断できる要素があり推測はついていた。
「もう、仕事のことになると他のことは等閑になるんだから。どれも大事なものなんでしょ?」
私は雑多となる床から紙を拾い上げ、イルスに手渡す。
「うん、なくてはならないものばかりだね。ああ、これとか特にそうだ。失くしてて、速く見つけて送るよう催促されていたんだよね」
「だったら尚更こんなに雑に扱ったら駄目だよ。ほら、イルスも床に落ちてるものだけでも拾って。踏んづけて、破けたりしたから洒落にならない―――っ!?」
今まさに、私がそうなった。
見落とした部品か何かを踏み、体制を崩す。
来たる衝撃に目を瞑るが、感じたものは痛みではなかった。それはほどよい柔らかなものであり、安心させてくれるような硬さでもある。
そろそろと目を開けると、私はイルスの腕に支えられていた。
「ふう、間一髪だった」
顔を覗きこみ、「大丈夫?」と声をかけられる。そして返答を待たずして、体のあちこちを診査された。
「助けてくれたから、なんともないよ」
「本当? でもミルは心配させないよう、強がるところあるからなあ」
「む、そんなことないよ」
「でも前科がある」
「私が覚えていないからノーカン。きっと、イルスが過保護過ぎるからいけないんだよ」
イルスの好意にむず痒くなり、照れ隠しで言い返すが事実である。私が怪我をしたり病気になって寝込んだりするとき、彼はいつも過保護に面倒を見る。
気持ちは嬉しいが、それはかなり厄介なのだ。
あれやこれやと世話を焼き、完治した後であっても異常はないかと何度も確認される。
酷いときは怪我の有無を見る為に裸になって、と乙女心をなんだと思っているのか問いただしてやりたくなるようなことを言われたりしている。もう少女のような年齢でもないが、これでもまだうら若き女である。
そのときは完全なる拒否を告げ、無事何とか事なきを得た。だが、その他は受け入れざるを得ないことにはなっている。
なぜならイルスは毎回毎回、泣きそうになってしまうのだ。
現に、
「捻挫はしてないみたいだね。君が無事で、本当に良かった」
目を若干に潤ませながら、眉を下げ破顔する。
心底ホッとした、と言わなくても分かるような表情だ。そうさせてしまう過去の私も、今の私にだって申し訳なさが生じる。
謝りたくなるような衝動にかられるが、そうしたって余計にイルスを心配させてしまうばかりだ。なので「だから言ったでしょ?」と私は軽口を叩いた。
私はある日突然、記憶喪失になった訳ではない。事故にあったせいらしいのだ。
直前の記憶はない。
そのお陰で事故の際の恐怖はないのだが、代わりの記憶の欠落というのはイルスに過大なる衝撃を与えたらしい。
「君を失ってしまうのが怖い」
独白に近い言葉、
「ずっと側にいてよ、ミル……っ」
イルスの心の叫びだ。
悲痛で、聞くものには胸を締め付けるような痛みを感じさせる。
その願いは普通は簡単に叶えられるものだが、イルスは事故という形で、あっけなく崩れてしまう脆いものだと知ってしまった。
でもそれはごく少数の者に訪れる不運なことだ。
イルスは過度に恐れすぎている。
次は私を手から溢れ落とさないよう、きつく大切に仕舞いこみすぎている。
「大丈夫、側にいるよ」
安心させる為の言葉はもう何回目だろうか。数えるのが億劫なぐらい、私はイルスに贈った。
これからも、私は贈り続けることになるだろう。その言葉には信用がないかもしれない。一度事故にあった身だ、尚更そうだろう。
だとしても、私はイルスに苦しんで欲しくない。だから何度も何度も、嫌になってしまうぐらい繰り返して言ってあげるのだ。
「ずっと側にいる。あなたを一人にさせたりしない」
意思を込めた言葉に、イルスは何も返したりはしなかった。代わりに私を強く抱き締める。腕には力がこもっていた。
まるで私の存在を確かめるかのようだ。私は震えてもいるイルスに、包み込むように抱き締め返した。
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